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2月2日は超絶的な技巧でヴァイオリン演奏に革命を起こしたハイフェッツの誕生日です

ロシア出身のヤッシャ・ハイフェッツ(1901~1987)は超絶的なテクニックとスタイリッシュでスピーディーな演奏で20世紀ヴァイオリン界を席巻した大ヴァイオリニストです。

19世紀的なロマンティシズムを体現した巨匠フリッツ・クライスラー(1875~1962)とハイフェッツは偶然の一致で同じ2月2日生まれ。この二人には、同じ1923年、関東大震災の年に来日したことも共通しています。

2大名手の誕生日を記念した特集です。

映画「かれらに音楽を(They schall have Music)」より
メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏するヤッシャ・ハイフェッツ

映画「かれらに音楽を」(1939年)
アーチー・L.メイヨ(監督) ヤッシャ・ハイフェッツ(出演)
ハイフェッツ本人の演奏が随所に散りばめられており、アカデミー賞作曲・編曲賞にノミネートされたアメリカ映画。日本公開は1951年。経営難に陥っている音楽学校を立て直すために、生徒たちは寄付を求めて奔走しますが、途中で巡り会ったヴァイオリンの名手、ハイフェッツのお蔭で危機を乗り越える、というストーリーです。ヴァイオリン・ファン必見の映画と言えるでしょう。

ハイフェッツのベストセラー盤はこちら!
メンデルスゾーン&チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲
感情に溺れず、ノーブルに、ポーカーフェイスで弾き進めるメンデルスゾーンは衝撃的な美しさ。チャイコフスキーでは彼のテクニックと根底にあるスラヴの血が火花を散らします。

ハイフェッツの超絶的な技巧を楽しむならこの1枚!
クラシック・ファンでなくても、誰が聴いても、そのパーフェクトなテクニックとスリリングなスピード感に驚かされることでしょう。
とくにサラサーテのツィゴイネルワイゼンは彼の代名詞となっている超名演です。

ハイフェッツのステレオ録音によるリサイタル盤を集成!
ハイフェッツが1960年代~70年代にステレオ録音で残したヴァイオリン・ソナタ(ベートーヴェン「クロイツェル」、サン=サーンス、フランク、R.シュトラウス、シューベルト:幻想曲)に加えて、ガーシュウィンの「ポーギーとベス」をはじめとするお得意の小品集を5枚に網羅したもの。

プロフィール
ヤッシャ・ハイフェッツ(1901.2.2~1987.12.10)は、その86年の生涯のうち、実に83年にわたってヴァイオリンを手にしていた。そして60年の長きに渡り、世界をまたにかけて聴衆の前に立ち続けてきた。最初のステージは、1911年4月30日、サンクトペテルブルクでのリサイタルである。以来、総計200万マイルに及ぶ演奏旅行や(その距離はかなりのところ、第二次世界大戦中の慰問演奏によって占められる)、1917年に本格的に始まった膨大なレコーディング、映画への出演、テレビの特別番組、10数年にわたる精力的な教授活動などによって、彼の芸術は世に広く知れ渡るものとなった。

ハイフェッツはロシアのヴィルナ(現ヴィリニュス、リトアニア共和国首都)に生まれ、父に与えられた4分の1サイズの楽器を手にしてヴァイオリンを父に習い始めた。4歳でヴィルナ帝室音楽学校でイリア・マルキンに学ぶ。コーヴノの地でメンデルスゾーンの協奏曲を弾いて公開演奏のデビューを飾ったのは7歳のときである。9歳で、ペテルブルク音楽院の誇るレオポルド・アウアーのクラスに入り、3年後には、いまだかつてない神童との評価を得るに至った。

ペテルブルクでは1911年、10歳で初の演奏会を行う。翌1912年、ニキッシュ指揮ベルリン・フィルとチャイコフスキーの協奏曲を演奏してセンセーショナルなベルリン・デビューを飾る。それからの数年間、彼はドイツ、オーストリア、スカンジナビア諸国で演奏会を開いていたが、おりしもロシア革命が勃発。彼は家族と共に幾多の困難を乗り越えた末、アメリカへ渡った。

1917年10月27日、ハイフェッツはカーネギー・ホールでアメリカ・デビューを果たした。「16歳の少年ヴァイオリニストの演奏は、栄えある歴史を持つこのホールにおいても、いまだかつて聴くことが出来なかったほどの、おそるべき技術と音楽性の高さをまざまざと見せ付けてくれた」と絶賛された。11月9日にはキャムデンのビクター・スタジオで初のレコーディングを行う。たちまちハイフェッツはアメリカの音楽的寵児となり、ニューヨークだけでも、最初の1年間に30回のステージをこなした。アメリカ国内ツアーを行ったのに続き、1920年にはロンドン、パリでデビュー、翌年にはオーストラリア・デビューを果たす。1923年には日本に初来日して、関東大震災救援基金を含む演奏会を行う(1931年、1954年にも来日)。彼はそのまま合衆国に身を寄せ、1925年にはアメリカの市民権を獲得している。

1934年、革命後17年ぶりにロシアに帰国、13回の演奏会を行う。”They shall have Music”で映画に初出演(1939年)、第2次世界大戦中は米軍兵士のための慰問演奏を行った(イタリアや北アフリカ前線を含む)。1947年アメリカ・デビュー30周年の記念コンサートの後、20ヶ月にわたって休養したが、1958-59年にはカリフォルニア大学で客員教授をつとめ、61年からは南カリフォルニア大学のヴァイオリン科教授に就任した。この頃からロサンジェルスでピアティゴルスキーらとの室内楽シリーズを開始、ニューヨーク、サンフランシスコでも開催する。半世紀に及ぶコンサート活動の後、60歳代を迎えたハイフェッツは、徐々に演奏の回数を減らしてゆく。1970年パリでTV映画「ハイフェッツ・オン・TV」を収録、72年に開いたリサイタルが、公のステージとしては最後のものである。

ハイフェッツは私的な室内楽演奏、編曲やエコロジー問題に取り組みながら、残りの生涯を教育活動に捧げた。その鋼の棒のごとき自己抑制に、いくぶんのやわらぎとなるユーモアを交えた態度で生徒達に接しながら、ハイフェッツが彼らにじわじわと浸透させていくのは、みずからを厳しく律した練習の重要性であり、ヴァイオリンという楽器を用いた音楽表現の方法と、その目的についてである。それを彼以上に熟知している人間は、確かに存在しなかった。またウォルトン、カステルヌオーヴォ=テデスコ、コルンゴルトなど、数多くのヴァイオリン協奏曲の作曲を委嘱し、その演奏に関わってきた功績や数多くの編曲による貢献も見逃せない。86歳、ロサンジェルスで死去。(ソニーミュージック)

カテゴリ : Classical

掲載: 2017年02月02日 12:00

更新: 2019年08月11日 00:00