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相対性理論と渋谷慶一郎

ゴダールの『アワーミュージック』はダンテの『神曲』、ディヴァイン・コメディ、つまり神聖喜劇の形を借りた三章からなる長編映画で、同時多発テロ以降のこの世界に散発する出来事を音楽的に〈響き合う〉ものとして描き、そのなかでゴダールは映画の登場人物となり、〈キリカエシ(この場合はリヴァース・ショットを指すだろう)〉と呼ばれる映画の技法に言及しながら、向かい合い空間をともにしたふたりの目に映る風景の違いに劇中から注意を促した。私はそれは交わらない立場の私たちが声──というよりもひそやかな気配のようなものかもしれないが──をあげるだけで、自然と引きつけ合い、やがてポリフォニックな、もしくはポリフォニーになる可能性を秘めたモノフォニーのようにふるまいはじめるといいたかったのではないかとおもう。

渋谷慶一郎が亡き妻マリアの追悼作品として『ATAK015 for maria(以下『for maria』)』を作ろうとおもいあたったとき、そのアルバムの最後に収録した曲を《our music》としたとき、彼には去来するものがあっただろう。最小限の濃密な関係をすごしてきたふたりの間を振り返るとき、ロマンチックな気持ちは沸きあがるようにその身に降りかかってくるものであるが、ゴダールの『アワーミュージック』が「神曲」の構造をもって映画の終わりに「天国篇」を置かざるを得なかったように、《for maria》ではじまったアルバムは《our music》で結ばれる必要があった。

それは一見、「私たちの」という所有格を加えることで心情を表したロマンスにおもえるが、彼のウェブサイトに詳しいが、渋谷慶一郎は科学的な厳密さで録音に挑み、『for maria』の終止形をロマンスに回帰させない作曲家の業をみせた。ひとつにそれは作曲家には作品のきっかけとなった事柄にとらわれながら、作る課程においてはそれを忘れなければならない、または忘れてしまうということである。私はこういった書き方をして、それ自体が作家主義に資するものとして読まれることを恐れもするが、『for maria』の行程には気持ちの揺れを耐える時間があり、それが彼に作曲家であり演奏者でもある彼自身への厳しい検証として働いたことを、『for maria』を聴きかえすうちにおもった。

ピアノだけの音楽である『for maria』は他の〈ATAK〉の作品と比べると圧倒的にアコースティックだが、入念な録音を行ったことが、彼のインタヴューにある。かつて音がどう響くか、複雑系の研究者である池上高志との共同作業や最先端のテクノロジーの活用で、エレクトロニカ〜現代音楽〜ノイズといった隣接した諸分野のいずれにも回収されない活動を行ってきた渋谷慶一郎の作品ではプロダクション〜ポスト・プロダクションはコンポジションと一体であるが、ではテクノロジーがその一部である音楽とは果たしてどういうものであろうか。いまではグールドの演奏をシミュレートした作品を私たちは聴くことさえできる。あれは狐につままれた気分になる作品だったが、もっと昔のたとえばナンカロウの自動ピアノ作品などは演奏者の個別性に疑義をさしはさむことで、テクノの始祖などともみなされた。

一方で『for maria』は稠密な再現性のフォーマットを録音にもちこみながら、演奏者の一回性の神話から遠ざかり、事後的にエディットさえ施した音のつながりがスコアを逆走するように遡行することで、演奏者が消える場所を探し求めるようである。うなり声のないグールドと、テクノロジーを創作と不可分にした渋谷慶一郎はともに、演奏者の記名性がもっとも高いクラシック(クラシカル)な音楽の分野にもポスト・サンプリング時代の波が及んだことを物語っている気がする、前者はパロディとして、後者はエレクトロ・アコースティックの次の世代として。というのは的外れだろうか。私は数ヶ月前、リキッドルームで聴いたピアノ一台を前にした渋谷慶一郎が数曲奏でた伸びやかな演奏と、『for maria』の一音一音をデジタルデータに焼きつけるようなストリクトリーな音の違いが気になるのである。オールスタンディングの観客がひしめくリキッドルームのステージに置かれたグランド・ピアノから発せられた音は、表面的には胸にストンと落ちる美しさがあった。私はそのときの演奏を聴いたのが先だった。『for maria』をその後に手に取ったのだった。このように音に出会うことは私になにかしら音楽家の厚みをほのめかすようだった。私はオーディオ/サイエンスとでもいおうか、ふたつの領域をスラッシュで区切ったときの美学とも科学ともとれるもの──ポピュラー音楽とアカデミズムと読み換えてもいい──にまたがる感覚を感じ、また『for maria』に収録された《wht》の硬質な響きとその日の演奏にはりついた肉体の記憶との距離を、変奏曲以上の隔たりをもって聴いた。

カテゴリ : Exotic Grammar

掲載: 2010年02月15日 17:37

更新: 2010年04月12日 18:52

ソース: intoxicate vol.83 (2009年12月20日発行)

text:南部真里

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