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中島ノブユキと ミシェル・シオン

2009年は太宰治の生誕100年で、小説をもとにした映画が何本か制作・公開された。年が明け、今年、2010年にも新たな作品がスクリーンに登場する。『人間失格』、作家が最後に完成した、自伝的ともいえる作品をもとにする荒戸源次郎監督のメガホン。

コンパクトではない。2時間をこえる。主人公の友人として、原作にはない、中原中也があらわれる。荒戸監督は、『ツィゴイネルワイゼン』をプロデュースした人物だからと言ってはあまりに安易だけれども、『人間失格』には、鈴木清順映画とどこかでつながっている風景が、モノが、空間が、静けさが感じとれる。たとえばトンネルをむこうにぬけると、ふ、っとべつの映画につながってしまったり、落ちてくる雫をてのひらでうけるとすぐうしろにおんなの姿がいきなりいたり、夕暮れせまるタバコ屋の道につながっているのがどことも知らぬ山のある風景だったり。そんな連想もそこにある映像を越えてみえてくる、ような。

小説はしばしば読み手によってテンポが変化する。映画監督が小説にとりくむとき、まったくべつのものをつくりだそうとしてもどこかにつながりをもってしまう。だから、映像と音のむすびつくなか、語りのなかにある空間を、呼吸を、時間をつかみ、べつのかたちに造形しなければならない。ともすれば、描かれていること、ストーリーの展開をならべるだけになってしまうことだってある。映画の作り手は原文のさまざまな隙間に鋭敏でなくてはならない。

『人間失格』、音楽は中島ノブユキ。初の映画の音楽で、既存のアルバム『エテパルマ〜夏の印象〜』『パッサカイユ』を、監督が愛聴してきた、そのうえでの、依頼だったという。


映画にはいろいろな音楽がながれる。

カフェで演奏するビッグバンド。レコードやラジオからながれてくる音楽。町で演奏されている救世軍のラッパとコーラス。お座敷で奏でられる三味線やうた。ねぶた祭りのお囃子。

断片的にひびき、すぐに消えてしまったり、観ているものの耳からとおざかったり、意識からはずれてしまったりする〈スクリーン内音楽〉に対して、映画の外からかぶせられる〈オーケストラ・ピットの音楽〉はごく少ない。

『人間失格』の音楽はストーリーや人物の心理を強調したり代弁したりなどしない。音楽は助けない。映画は、しばしば映画の解釈をも言葉や音楽で同時に提示したり埋めこんだりする。そうしがちな例は世に多くある。ここで荒戸源次郎はそれをできるかぎり禁欲したいとする監督のひとりだ。観るものは映しだされているものとじかにむきあわなくてはならない。大袈裟なアクションもなく、景色が、モノが、ひとが映っている。その時間を音楽は埋めたりしない。時間の経過を、フィルムがかたかたと動いてゆくのを、ひとは、基本、視線によってつきあわなくてはならない。

カテゴリ : Exotic Grammar

掲載: 2010年02月20日 20:11

更新: 2010年02月23日 19:04

ソース: intoxicate vol.84 (2010年2月20日発行)

TEXT:小沼純一(音楽・文芸批評家/早稲田大学教授)

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