黛敏郎作曲『古事記』
黛敏郎は岡本太郎とダブります。岡本は戦後復興期のアートのチャンピオンでした。モダンでアヴァンギャルドでエネルギッシュでした。戦後の焼け跡のゼロ地点からみんなが出直さなければならない。そのための思想とエネルギーを満載していました。途方に暮れている人々の背中を押す。いや、突き飛ばす。そのくらいの元気があったのです。作るものは押しつけがましく派手派手しかったのです。
黛敏郎もまるでそういう人でした。ただ分野が違っただけです。クラシック畑の作曲家として、音楽の領域で岡本太郎の役割を演じました。実際、ふたりは似合いのコンビでもありました。親しい友人同士でした。岡本は、黛が企画構成司会を務めて1964年から30年以上も続いたTVの長寿番組『題名のない音楽会』に、たびたびゲスト出演しました。
岡本の絵画がどぎつい原色と荒々しく素朴なタッチで戦後の日本人の度肝を抜いたのとおなじように、若き黛の作品群は何よりもまずその強烈さで音楽ファンをノックアウトしました。映画俳優で言えば、戦後初期に登場した新スター、三船敏郎や三國連太郎のイメージと重なるところがあるのかもしれません。敗戦のドン底。もう何も信じられない。でも生きていかなければならない。強靭で猛々しい生命力だけが頼りだ。そういう感覚を黛は響きで体現しました。
たとえば1950年、21歳の黛は《シンフォニック・ムード》という大オーケストラのための音楽を発表しました。尾高忠明の父親でフェリックス・ワインガルトナーの弟子、尾高尚忠の指揮する今のNHK交響楽団が初演しました。そのとき会場の日比谷公会堂に居た黛の後輩の作曲家の卵たちはびっくり仰天しました。鳴りが物凄い! こんな轟音は聴いたことがない! ラヴェルやストラヴィンスキーがモデルには違いないけれど、もうモデルを超えているのではないかしらん。音で殴られた感じがしたと言います。
《シンフォニック・ムード》は特にインドネシアの音楽から想を得ています。ガムランやケチャです。それらがフランスの印象派やストラヴィンスキーの原始主義と組み合わされて、何とも正体不明の怪しい交響的ムード音楽にされている。無国籍的であり多国籍的であり異国的です。岡本太郎の絵画は無国籍や多国籍というより超国籍でしょうか。いずれにせよ岡本も黛も雑多で自由でした。存在そのものがギラギラと図々しかったのです。
しかし、岡本や黛が逞しく生き生きと泳ぎ回った戦後の混乱の時代も、じきに終息に向かいます。1956年の『経済白書』は「もはや戦後ではない」と自信たっぷりに宣言しました。社会が安定してきた。少し豊かになってきた。野獣のようにギラつかなくても生きられるようになってきた。岡本や黛にも転換期が訪れます。「ヴァイタルに頑張って生き残れ!」と叫び、無軌道に刹那的にエネルギーを暴発させる頃合いはもうすぎた。そもそもそういうやり方は若さの特権でしかない。岡本太郎は1911年生まれだから「もはや戦後ではない」のときは45歳だ。とっくに不惑を越えている。黛敏郎は1929年生まれだから27歳だ。岡本に比べればまだまだ若い。でも10代から活躍している。既に年季が入っている。フランス留学も済ませた。大人へ脱皮していい年頃です。
けれども岡本も黛も分別くさくはなりたくありませんでした。「芸術は爆発だ」は岡本太郎の名文句。爆発してこその岡本であり黛です。ふたりとも相変わらずヴァイタリティにこだわり続けました。ただそのヴァイタリティをおのれの霊感や想像力や体力や思いつきに任せて、偶然に刹那的にほとばしらせる一方ではもはや済まないだろうと思い至ったのです。不定形で気まぐれな爆発にそろそろかたちをつけよう。ヴァイタルなエネルギーをおのれ一個の若々しい精神と肉体にばかり求めるのではなく、大いなるものとつながって無尽蔵にしよう。そして大いなるものは無軌道なエネルギーに自ずとかたちをつけてくれるだろう。刹那の爆発に悠久の大義を与えるだろう。そうして岡本も黛も「もはや戦後ではない」ほどに安定してきた時代に相応しい、大人のヴァイタリティを得ることができるだろう。
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