フェスティバル/トーキョー
身体が消え、その後に残る その奇妙な肌触りとともに
──今年度で第4回目を迎える、トーキョー発、アジアを牽引する舞台芸術の祭典
たとえば『プライベート・ライアン』の冒頭、およそ30分ほどにわたるノルマンディーの海岸での戦闘シーンは、かつて誰も見たことのない映像と音響で溢れかえっていた。それは確かに誰も見たことも聞いたこともないものであったが、しかしそれ故に現場での戦闘とはこういった映像と音に溢れているに違いない と、誰をも納得させるものだったはずだ。あの映画を見た人の多くが、何はともあれ冒頭の戦闘シーンについて語るのは、おそらく自分が実際には全く体験したこともない事態を、映像と音の真実らしさの洪水によって力ずくで納得させられてしまった、その映画の力に打たれてのことだったように思う。面白いとかつまらないとか、そういった映画の内容以前の問題として、スクリーンの上にいきなり圧倒的な現実が出現してしまった驚き、と言ったらいいだろうか。映画を見に行ったはずなのに、たった一発の「シューン」という銃弾の音によって、一気に戦場に連れ去られてしまったという感覚。あとはもう、なされるがまま。頭の上を銃弾が飛び交い、血しぶきを浴び、目の前に千切れた手足が飛んでくる。なす術なし。本当の戦場を知っているとかいないとか、そんなことは関係のない、そこだけにある現実に確実に包まれてしまったというかつて経験したことのない映画の肌触りを、私たちはそのとき体験してしまったのだ。
その映像を作る際、監督のスティーヴン・スピルバーグは、第2次大戦のときに撮影されたニュースフィルムを次々に見ながら、戦場のリアルを再現していったのだという。年齢を考えれば当たり前のことなのだが、スピルバーグももちろん、当時を知らない。戦闘が記録されたフィルムというメディアを見ることによって、そのメディアが伝える現実を再現しようとした、というわけである。だからそれを見る私たちは、ふたつのフィルターを通して過去の現実を体験しているということになる。遠く離れた場所や時間のその先で起こった出来事を映像を通して見るという2次的な体験ではなく、映像を通して見た人間が見たものを見る3次的な体験。しかもそこで起こっているのは、スティーヴン・スピルバーグというアメリカ映画の大ヒットメーカーの作った映像を見るという個性に関わるものではなく、スピルバーグの名前も関係ない、単にかつてその場所で確かにこのようなことが起こっていたはずなのだという、「現実」体験なのである。それは現実のコピーのコピーを見ることとも違う。私たちは『プライベート・ライアン』において、それをあくまでも現実として受け取ったはずなのだ。
化石の中に残存していたかつての生物の血痕に残るDNAを頼りに、見事に当時の生物を誕生させてしまう科学者の作業にも、それはどこか似ているのかもしれない。スピルバーグはその痕跡がまだ現実でリアルタイムであった頃と今この現在とを一気に繋ぐ、時間と空間の通路を見つけたのだ。スピルバーグがドラえもんを見て『E.T.』を作ったというのは有名な話だが、その果てに彼は、映画を〈どこでもドア〉にしてしまうマジックを開発したのだろうか。いずれにしてもそれを見る私たちは、2次的、3次的に作られた映像の果てにある現実を、はっきりと体験してしまったのである。
逆に言えばそれをいったん体験してしまった以上、私たちは後戻りができなくなる。おそらくそれは私たちの目の前にある現実よりもはるかに現実らしいものとして、私たちの身体に侵入してしまうはずなのだ。映画史を振り返って見ると3Dブームというのは何度かあって、その度に単なる流行りものの領域を超えることなく忘れ去られていったわけなのだが、昨年からの3Dブームがこれまでと違うのは、私たちの身体にいつしか埋め込まれてしまった映像による現実らしさの感覚と3D映像とが、どこかでシンクロしはじめていることだと言えるように思う。『アバター』『トイストーリー3』といった映画の奇妙なリアリティ、そこで動いているのはあくまでも描かれた絵であるはずなのになぜか本物の生き物のように感じてしまうかつてない肌触りを、私は決して忘れないだろう。
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