David Lynch

デヴィッド・リンチのグレイト・アメリカン・ソングブック
既に4年前になってしまうのだが、デヴィッド・リンチの現在のところの劇場用の〈最新〉長編『インランド・エンパイア』を見た時に、これがリンチの最後の映画になるのではないかと思った。それくらい「映画」としての形式は崩れ、リンチの作品としか言いようのないものへと変容していくその向こう側の暗闇を、それは映画全体に湛えていた。
もちろんそれを支えていたのは音であり音楽であった。リンチの他作品を見ても、そのことは誰もが感じるだろう。画面のどこかから不意に聞こえてきて映画の世界の空気を一気に変えてしまう音、あるいは常に小さくなり続け、その世界をここではないどこかに捕らえて離さない音。そして今ここの世界とどこでもないどこかというふたつの世界を繋ぎつつその絶対的な断絶の深い闇を突きつけてくる音……。
DVDの音量をちょっと上げてみればそれはすぐにわかる。聞こえてくる音の微細な変化がスクリーンから滲み出して、気がつくとそれを見るこちらの現実をもすっかり変容させてしまっている。ひとつひとつの台詞の響きもまた、単に意味や感情を伝えるだけではなくそれらが言葉というより言霊として外の世界に広がり始める。だからそれはひとりの個人が語っているというより、ひとつの世界の背景にある闇のどこかから聞こえてくるようでもあり、そのことによってその言葉を発するひとりの個人はスクリーンの奥にも手前にも広がり出して、それを見る私たちの中へも浸透する。つまりその言葉を話しているのは私ではないかという錯覚さえ起こるくらいには十分に、音や言葉は私たちの中へと入り込み、私たちの内側から視覚と聴覚を変えていく。
デヴィッド・リンチの作品はどれもそんな触媒として、何かと何かを繋ぎ断絶し続けてきたわけで、『インランド・エンパイア』ではもはやそこで語られる物語は意味をなさない、言ってしまえば触媒としての音と音楽の名残のようなものにさえ思えたのである。だからそれを更に純化させたら音楽作品になる。リンチが本人名義で《Good Day Today》と《I Know》という楽曲をリリースしたのは今年初めだが、当然のようにいよいよソロアルバム『Crazy Clown Time』がリリースされるのである。
「私にとってはふたつは同じようなものなんだ。私は常に『映画は音楽みたいだ』と言ってきた。なぜなら、共に時間が関係しているからだ。始まりがあって、中間部分があって、終わりがある。ある速さで、その時間を我々は移動していく。その中で異なる様々なことが起こる。音楽もそうだし、映画も同じだ。いろんなことが起こり始める。つまり流れがあるんだ。アイディアの流れがあり、サウンドの流れがあり、映像の流れがある。異なる様々な展開がある。共通点は実にたくさんある。何より、どちらも、受け手の中の何かを掻き立てる力がある」
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カテゴリ : Exotic Grammar
掲載: 2011年10月31日 12:14
ソース: intoxicate vol.94(2011年10月10日発行)
interview&text:樋口泰人(boid)