追悼 立川談志
どうやっても立川談志、誰がなんと言おうと立川談志の落語
談志師匠が亡くなってしまいました。喉頭がん、75歳は早過ぎました。
とにかく落語が好きで好きで、とことん落語に惚れ抜いていた方でした。演者でありながら、並外れた鑑賞眼を持つ、評論家顔負けの理論家でもありました。とにかく全身落語の師匠でした。
縁あって、談志師匠の高座の録音のお手伝いを始めたのは、2003年1月の新宿厚生年金会館からです。以降、ライヴCDとしても利用出来るクオリティーで収録し、前々から続けている映像記録の音声トラックにも提供する形で東京近郊の独演会を中心に追いかけていました。
そこへ、とんでもない企画が持ち込まれます。『談志百席』でした。立川談志のCD化されていない音源を「百」集めて、スタジオ録音して50枚のCDを作る と言うのです。プロデューサーに、「第一に談志師匠のネタを掻き集めても百席残っていない」(これは談志師匠も同じ思いだったのを、第1巻のCDで御本人 も語っております)、それに「スタジオ録音では談志の魅力は伝わらないのでは」と反対したのですが、足りない分は新しくネタ下ろしする、そのためにもスタ ジオ録音で編集が必要だからと、妙な説得をされてスタートしてしまいます。時に2004年9月6日の事でした。
スタジオ録音ではつまらないのではと言う危惧は、杞憂に終わります。実際の高座の再現にとどまらず、むし ろそれを逆手にとって、時にはDJ風にスピーカーの前の人に語り掛けるように喋り、仕草の解説をしながら進めたりと、師匠はそれまで数多くのラジオ番組を 経験していますから、そのノウハウを上手に取り入れたんですね。
以後、毎月のように録音は重ねられ、2006年10月まで『百席』の録音は続きます。「百席も無いのに おっちょこちょいだから」と請け合っちゃう師匠も師 匠ですが、初物のネタにはやはり苦労していました。「おい、これこんなもんだけど編集でなんとかまとめてくれねぇか」と言われて「なんとかしましょう」と 請け合っちゃう私も私です。おかげで随分苦労したものもあります。ジクゾーパズルのような編集をしても、喋っているのは立川談志、どうやっても立川談志、 誰がなんと言おうと立川談志の落語なのでした。
「近江八景」での占いの解説を、たまたま遊びに来ていた野末陳平さん(占いに詳しい)をスタジオに引っ張 り込んで解説させて、それをそのままCDに入れて しまったり、「あたま山」では普通じゃつまらねぇからと、現実音の効果音を入れてしまおうなんて、そんなアイデアには脱帽させられました。(これワーワー 騒いでいる声まで師匠の声を使ったんです)
千太・万吉の漫才「仁義は踊る」を落語で演りたいという時には、私がアイデアを出して一人二役の多重録音にしました。千太の談志と、万吉の談志が左右にいて掛け合うように編集したのです。作品をスタジオでプレーバックした時、師匠は大笑いして喜んでくれましたね。
録音中にスタッフを爆笑させた「置き泥」、見事なセンスで現代流に蘇生された「提灯屋」や「ん廻し」。そ して、百席で生まれて高座でのレパートリーになった、「青龍刀権次」「子別れ」の下。そしてなにより録音終了後の師匠との落語談義、この『百席』での録音 の思い出は尽きません。
『百席』の録音中も声の調子が悪い時がありましたが、このあと徐々に喉は悪化して行くようでした。出来の 良い高座の後で、舞台脇の私の所へ「どうだった」と確認に寄ってくれて、胸を張っていた師匠。そんな師匠が、「あんたが見て本当に酷い高座があったらこっ そり教えてくれ」と言うまでに弱気になっていました。
2007年12月18日、今思えば、この日の「芝浜」が立川談志の頂点だったと思います。喉が回復すればまた、という期待感は段々薄れて行きました。私にとっての最後の録音は、2011年2月20日、立川での「明烏」でした。
私には談志師匠に仰せつかった大命があります。師匠が残した落語ライブラリーの有効活用です。整理整頓、然るべき所への保存は責任を持ってやらせて頂きます。
立川談志、本名・松岡克由、戒名・立川雲黒斎家元勝手居士、2011年11月21日没。もっともっと、落語の話をしたかったのに残念です。

©ムトー清次
寄稿者プロフィール
草柳俊一(くさやなぎ・しゅんいち)
レコーディング・エンジニア、落語研究家。1953年神奈川県生まれ。スタジオ勤務・レコード会社勤務を通じて音楽畑のエンジニアとして活躍、 1997年にフリーとなってからは、落語関係の企画の仕事を多く手掛け、様々な音源を発掘して発表する一方、本来の録音エンジニアとして落語CDの作品も 数多い。
2010年4月に行った立川談志インタヴューはこちら