テオ・アンゲロプロス

『永遠と一日』 ©THEO ANGELOPOULOS 1998
追悼テオ・アンゲロプロス
そして、彼は突然フレームの外へ行ってしまった。
最近はユーロ危機の引き金となった深刻な財政破綻のニュースばかりが話題に上り、ある種ネガティヴなイメージの固定化が進むかのようだが、僕にとってギリシャは何を措いてもテオ・アンゲロプロスの国である。深い霧が山々や荒野、灰色の海を覆い、いつ晴れるとも知れない曇り空からひっきりなしに降り注ぐ細雨……そうした寒々とした風景のなか、黒装束の男女らが泥濘と化した大地や濡れた街路を、背中を丸めて歩み、あるいは無言のまま立ち尽くすなどする……。彼の映画を見た者なら誰もが知る〈アンゲロプロス的風景〉とでも呼ぶべきものがある。
それらが典型的なギリシャの風景と異質であることはいうまでもない。通常僕らはこの地中海の国から、明るい青空や暖かな陽光、透き通るような青い海を連想するだろう。アンゲロプロス的風景は、だからむしろ自然に抗い、人工的に選択、構築された映画のための風景である。個人的には、遠い昔にまだ春になりきらない3月のアテネ周辺に1週間ほど滞在したことがあるだけだが、ギリシャはアンゲロプロスの映画で見てきたままの風景で僕を迎えてくれるかのようだった。僕の方でそうした風景を探し求めていたからかもしれないが、現実のギリシャから抽出された映画の風景が、現実のギリシャを見つめる僕らの視線を呪縛する倒錯にこそ、映画の醍醐味が宿るのではないか。アンゲロプロス的風景は現実の風景の反映ではない。有名なゴダールの言葉を援用すれば、〈現実の反映〉としてではなく、〈反映の現実〉として彼の映画はある。むろん、アンゲロプロスは偏狭なナショナリストではない。彼がギリシャにこだわるのは、祖国の歴史を批判的に吟味する営為に心血を注ぐからである。その際に彼はギリシャの風景を異化し、その結果生じたアンゲロプロス的風景が、僕らの前に広がるはずの現実のギリシャをも飲み込む……。
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