ジョン・ケージとピエール・ブーレーズ
実り多き交流、壮大なる誤解
1949年4月、36歳のジョン・ケージはマース・カニングハムとともにオランダ、ベルギー、イタリアを訪れたあと、5月にパリに落ち着いた。お金はなかったが、パリは「抜群に美しかった」し、とくに一人の若い作曲家がケージに活力を与えてくれた。若干24歳のピエール・ブーレーズは、ちょうどピアノ・ソナタ第2番(1948)を作曲し終わったところで、彼の音楽は、ケージにとってヨーロッパで見つけたいちばんの収穫となった。ケージとブーレーズは頻繁に出会い、セーヌ河畔を歩きながら、意見を交換しあった。こうして二人は、おそらく20世紀の音楽において おそらくいちばんと言っていいほど、実り多き交遊関係をスタートさせることになった。
二人の関係が、最終的にはあまり具合のいいものでなくなったことは周知のとおりである。しかしそれまでに二人が行なった交流、また二人が交換した手紙の内容は、20世紀の音楽の展開においてきわめて重要となる節目をつくったことは確かであり、これらをもう一度洗い出し、整理してみることは有益だろう。すでに出版されている二人の往復書簡を軸として、二人の交流の軌跡を辿ってみよう。
写真:1962年10月 ジョン・ケージNHK出演
デヴィッド・チュードア(左)とジョン・ケージ(右)
写真/吉岡康広
写真提供/財団法人 草月会(以下写真全て)