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特集

東京の夏、現代音楽の夏

©サントリー芸術財団

サントリーはなぜクラシック音楽、
とりわけ現代音楽に
お金を使ってくれるのか

サントリーは奇特な企業です。ありがたい会社です。西洋クラシック音楽のために散財してくれる。しかも同じクラシック音楽でも、ファンが多くて集客力もあり、いかにも宣伝になりそうな有名どころにばかり目を向けているのではない。外来のオペラ座とかオーケストラとか世界的大ソリストとかを援助したり呼んできたりして終わりというのではない。というか、むしろそういう部分には不熱心なくらいだ。サントリー芸術財団という組織を仕掛けの中心にして、もっと地味で目立たないところにお金をたくさん落としてくれる。日本のクラシック音楽界全体にとても目配りしてくれている。分かる人には分かる大切な仕事をしていても、なかなか経済的にも地位名声の面でも恵まれないところを救ってくれている。

とりわけ日本の作曲界はサントリーの恩恵にどれだけあずかっていることか。この国の多くの現代音楽作曲家にとっては「神様、仏様、サントリー様」といっても過言ではありますまい。しかも一時のきまぐれではない。とても継続的なのです。何十年もぶれない。民間企業では滅多にない。

そのうえ特に1990年代あたりからは海外の現代音楽に特化したコンサートもずいぶん開いてくれるようになりました。放っておいたら幾ら長生きしたところでこの国では一生聴けなさそうな海の向こうの重要な作品が、どんどんステージにかかるようになった。生でやられるようになった。その主たる場がサントリーホールで開かれる「サマーフェスティバル」です。今年で25周年を迎えます。

なぜ、サントリーはそんな真似をしてくれるのでしょう? クラシック音楽とか日本の作曲家とか現代音楽とかにこだわってくれるのでしょう? もっと世間にわかりやすく褒められやすいお金の使い道は幾らでもありそうなのに。

歴史を振り返ってみましょう。サントリーの創業者は鳥井信治郎という人です。13歳で大阪の道修町で漢方薬やワインやウイスキーを扱っていた小西儀助商店に丁稚奉公に出ました。ついで絵具や染料を扱う小西勘之助商店で働き、やがて独立。大阪の西区の靭中通に鳥井商店を構えます。1899(明治32)年のことでした。信治郎、20歳の年。奉公から独立まで7年。義務教育は小学校までで13歳で社会人になる日本人が圧倒的に多かった時代にがんばった人のひとつの生きざまです。この鳥井商店がすぐに寿屋と名を改め、さらにサントリーになる。「サン(太陽)+鳥井」でサントリーです。

信治郎の志は一貫して洋酒製造にありました。日露戦争終了直後の1907年には赤玉ポートワインを発売。スペイン産のワインを主原料とし、香料や砂糖を加えて日本人向けに味を直したものです。話題沸騰売れ行き好調の看板商品になりました。赤く燃える玉というのはつまり太陽だ。サンなんだ。のちのサントリーという社名の原点も赤玉の大ヒットにあるわけでしょう。とにかく寿屋は赤玉を売りまくって社業を拡大し、1912(大正元)年には関東にも進出。1919年、大阪の湾岸埋め立て地に新工場を建設。増産体制を固め、企業としていよいよ大きくなっていきます。ワインだけでなくウイスキーもやろう。しかも原酒を輸入してどうこうではなく日本で醸造しよう。本場に負けない日本のウイスキーを作ろう。関東大震災の翌年になる1924年には京都と大阪の境目の山崎に蒸溜所が完成しました。

寿屋ことのちのサントリーが西洋クラシック音楽と本格的に接点を初めて持ったのはちょうどこの頃です。関東大震災の前年の1922年、寿屋は赤玉ポートワインの宣伝のためオペラ団体、赤玉楽劇団を結成したのです。

つまり寿屋は赤玉ポートワインと西洋クラシック音楽のイメージを結びつけたかった。そのために自らが歌劇団を組織してオペレッタの全国巡業をやった。寿屋が歌劇団の運営に乗り出した背景には、当時のオペラやオペレッタのブームがありました。浅草オペラや宝塚少女歌劇の時代だったのです。その前史としては、1911年に開場した東京の帝国劇場がイタリア人の振付家ロッシ(日本ではローシーと呼ばれていました)を指導者として日本人歌手を育成し、オペラの興行をやったということが大事です。帝国劇場のオペラは本格路線を狙いすぎ、日本の客にはまだ難しすぎて当たらなかったけれど、そこで育った人材が浅草等々に行って、大正オペラ文化を花開かせたのです。

カテゴリ : BLACK OR WHITE

掲載: 2012年06月20日 16:40

ソース: intoxicate vol.97(2012年4月20日発行号)

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