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特集

The Records of Gustav Leonhardt/グスタフ・レオンハルトのレコード(6)

1977年の初来日~バッハ生誕300年周辺

レオンハルトの初来日は1977年の秋であった。ヨーロッパでは既に彼の名声には揺るぎがなかったが、日本では、まだまだ古楽器奏者にとってはあまり旗色のよくない時代である。欧米ではすんなり受け入れられていた彼の「現代のバッハ」という綽名にしても、この時期の日本ではまだ違和感を持つ人は少なくなかった。また、チェンバロにおける揺れの多い自由な演奏スタイルにしても、欧米では広く受け入れられているのに、日本では見当外れな批判評が多かった。

ここで、ちょっと理屈っぽくなるが、「古楽の復興」の意味を考えてみよう。西洋音楽においては、19世紀にバッハなど前世紀に活躍したいわば遠い過去の音楽作品の再発見と再評価が始まったが、それらの活動は19世紀の価値観と趣味をそれ以前の時代の音楽にも適用しようとするもので、楽器も19世紀に使われていたものがそのまま用いられた。バッハの時代の楽器は、チェンバロやリコーダーのように既に廃れてしまっているか、ヴァイオリンやフルートなどのオーケストラ楽器のようにその形態や機能が大きく変化しており、バッハ時代の楽器とは大きく異なっているかの何れかであった。

レオンハルトや彼の下に集まった古楽器奏者たちは、バッハをはじめとするバロック期の作曲家たちが用いたいわゆる「古楽器」を用いただけでなく、それらの楽器の「正しい」取り扱い方を探求した。すなわち、平たく言えば、チェンバロを「ピアノのように」ではなく、「チェンバロらしく」演奏するためにはどうすればよいか、を徹底的に研究したのである。そのためには、正しく復元された歴史的名器やそれらのコピー楽器を当時の調律法を用いて調律し、当時の教則本その他の文献に当たって音の出し方からさまざまな表現方法を学び、そのような営みを通じてさまざまなレベルでの「演奏慣習」を実践し、個々の演奏手法の背後にある音や表現方法の価値基準を復興しようとしたのである。このようにして、彼らの活動は、自然と、「楽器」の復興から「表現方法」の復興へと進み、バッハの作品のような既知の名曲に従来とは全く別の方向からの光を当てると同時に、忘却の彼方へと追いやられた数え切れないほどの作品を再発掘してそれらの価値を世界に知らしめたのである。

従って「古楽の復興」は、西洋音楽がそれまでに経験したことのない一種の革命的な文化運動であり、その革命の中で先導役を務めたのが、レオンハルトやアーノンクール、ブリュッヘンといった人々であった。そのような文化現象に対して、日本の音楽評論界の中には驚くほど無知で不見識な人が少なくなかったのである。

しかしヨーロッパでも、古楽を取り巻く状況は、必ずしも「順風満帆」とは行かなかった。古楽専門レーベルとして優れた企画を連発して来たセオンも、80年代前半に倒産。世界の古楽市場は、まだ、演奏家や関係者が考えるほどには成長していなかったという厳しい現実を思い知らされたわけである。その一方、クラシック・レコード最大手の1つであるフィリップスが、1984年、レオンハルトの独奏とブリュッヘン率いる18世紀オーケストラの積極的な録音を開始するという明るいニュースもあった。82年にCDプレーヤーを発売してレコード界に革命を巻き起こしたフィリップスが、CDという新しいメディアの普及を狙ってレコード部門を拡大、その世界的な商業戦略の恩恵が古楽界にももたらされたというわけである。1985年はバッハ生誕300年に当たっており、それに向けてバッハのチェンバロ作品のアンソロジーが同社で録音された。また、ラ・プティトバンドとオランダ・バッハ協会合唱団を振った《ロ短調ミサ曲》で、長年にわたるDHMとWDRの共同企画の有終の美を飾った。

1988年にはバッハ《フルート・ソナタ全集》でバルトルト・クイケンと共演(DHM)。1989年には、DHMのプロデューサーとして返り咲いたエリクソンとの企画で、27年ぶりとなるフローベルガーのアルバム、ラモー、デュフリ、ロワイエなどの作品を集めた『フランス・クラヴサン音楽の精華』、そしてレオンハルトのバッハの代表的大作としては最後のものとなる《マタイ受難曲》の録音が行われた。この年は、テルデックの『カンタータ全集』の最後の刊がリリースされた年でもあった。レオンハルトはこの大事業を、《侯妃よ、なお一条の光を》BWV198という、バッハの全作品中でも屈指の名曲の1つの記念碑的名演で締め括った。

80年代には、EMIで、バッハの《イギリス組曲》と《パルティータ》の再録音、エイジ・オヴ・エンライトゥンメント管弦楽団とのC・P・E・バッハのシンフォニア集及びアンナー・ビルスマをソリストに招いたチェロ協奏曲集などの録音も行ったが、その後、EMIとのお付き合いは弟子のボプ・ファン・アスペレンに委せたようだ。1995年、アスペレンとの共演によるバッハ《2台のチェンバロのための協奏曲》(全3曲)[EMI]は、レオンハルトの久しぶりの、そして最後の協奏曲録音となった。

この脂の乗り切った80年代に、レオンハルトを日本に再招聘する機会がなかったのは返す返すも残念なことだ。91年に2度目の来日が実現するまでに14年もかかった。その間に、世界中で古楽をめぐる状況は一変していた。この頃になると、彼は60歳を少し過ぎていわば晩年様式の入口に立っており、自由なファンタジーが異次元の世界に遊んでいるような、余人の全く及ばぬ境に達していた。その後は、彼も日本が気に入ってほぼ2年毎に来日し、日本の聴衆にも親しい存在となったのである。

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カテゴリ : BLACK OR WHITE

掲載: 2012年07月24日 14:58

ソース: intoxicate vol.98(2012年6月20日発行号)

文・渡邊順生(チェンバロ・フォルテピアノ奏者)

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