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特集

大島渚―「罵り合い」の「論理」と「ポエジー」

掲載: 2013年03月07日 20:50

ソース: intoxicate vol.102(2013年2月20日発行号)

文・北小路隆志

大島渚が亡くなった。年齢や病状から彼の新作を見る機会が永遠に失われてしまったことはかなり以前からすでに自覚できていた。しかし、それでも大島が自宅でひっそりと沈潜しているとの事実そのものが、僕らにとって何がしかの意味を帯びてきたのではないか。たとえば、海外での大島作品への評価は相変わらず高く、ぜひ滞在中に大島に会いたい、と来日した映画関係者が希望を述べる機会に僕も何度か接してきている。結局、先の事情から彼に会うことは叶わなかったはずだが、それでも大島が日本で生きていることの意義を証明する事例とはなるだろう。ある種の海外の映画関係者にとって、日本は〈大島渚の国〉であった。そして今後僕らは、〈大島渚のいない日本〉を生きなければならない……。

『日本春歌考』、『無理心中 日本の夏』(ともに1967年)と「日本」を題名に配した映画を立て続けに発表した時期からしばらく、ちょうどその頃から大島組に不可欠な同志の一人となった、美術の戸田重昌による「日の丸を憎む」趣味も介在し、巨大な日章旗が大島作品に頻出するようになる。特に赤ではなくてどす黒い日の丸を中央に配した異形の日章旗の林立は、当時の大島作品のトレードマークであった。1960年代後半から70年代初頭にかけての時期の大島にとって「日本」が主題もしくは批判の標的として明らかに前面化し、それは、大島作品がもっとも過激で難解であった時期とも重なる。批判や呪詛の対象としての〈日本〉……。だが、他の日本映画に類を見ない、その日本(映画)批判の苛烈さによって、ある意味、皮肉なことながら、同時代的な海外の映画人にとって日本は〈大島渚の国〉となった。つまり、溝口健二、小津安二郎、黒澤明といった、とりわけ海外の観客にとってオリエンタリズムに基づく評価から自由になれなかった「巨匠」たちを度外視したとして、大島作品こそが日本映画の現在形となる時期が長く続いてきたのだ。

では、日本の映画史において大島渚の死はいかに位置づけられるべきなのか。単純化を恐れずにいえば、それは「戦後」というパラダイムの完全なる幕引きを意味するだろう。大島の顔が不機嫌そうに歪むさまが目に浮かぶようだ。というのも、日本映画が全盛期にあった1959年に監督デヴューを果たす際の大島は、すでに戦後的なパラダイムへの批判を声高に主張する存在だったからだ。それはどのような意味での批判だったのか。重要な論文である「戦後日本映画の状況と主体」(「大島渚著作集 第一巻」所収)に沿って要約してみよう。

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