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大島渚―「罵り合い」の「論理」と「ポエジー」(4)

ディスカッション(対話)を信じようとする人々は、以下の二つの方向性に分かれる。いくら意見の対立があっても、人間なのだから話せばわかるよ……との考え。乱暴を承知で、それを戦後民主主義的なヒューマニズムの立場としよう。次に、意見を戦わせるなかで、どちらか一方に他方が説得される、というのではなく、むしろそうした意見の対立が別次元の新たな「真実」へと収斂される可能性を信じる弁証法的な立場がある。これも乱暴にいって既存のマルクス主義的な立場であるとすることができるだろう。二つの立場は対話の解決(和解)の可能性を信じる点で同類であり、ただひとつの「真実」があるとの前提が彼らにおいて共有されている。そして大島は、これら二つの立場双方に意義を唱え、「真実(正解)」を前提とするディスカッションなど自分の映画とは無縁である、と宣言するのだ。つまり、私の映画で繰り広げられる言葉の応酬は、ディスカッションなどといった上品なものではなく「罵り合い」である……と。後年になってテレビの討論番組の常連となる彼の姿が即座に想起されよう。あるいは、日韓知識人交歓の席で不意に「バカヤロウ!」と叫ぶ彼の姿が……。私は私の意見を述べ、あなたはあなたの意見を述べる。しかし、どちらかが「真実」であるとの保証はどこにもなく、言葉の応酬はつねに「罵り合い」であるべきなのだ……。

大島作品に横溢する「歌」についても、パラレルに考えることができるだろう。彼の映画にあって、人が集まれば酒を飲み、議論を戦わせ、そして歌を歌い始める。それぞれの歌がある種のイデオロギーを体現することも多いが、ある意味で問題は、歌の内容である以上に、それが一人かそれに近いかたちで歌われるか、それとも合唱されるかの違いにある。『日本の夜と霧』に登場する「歌ごえ運動」や『日本春歌考』における若者らのフォークソングなどは集団によって和気藹々と合唱されるが、大島にとってそれは不愉快な行動以外の何ものでもないように映る。歌とは対立軸を生み出すための罵りであって、それが和解や「真実」へと収斂されるときにこそ、権力やファシズムが生起するのだ。だからまさに歌合戦の映画ともいうべき『日本春歌考』における、春歌(猥歌・エロ歌)と軍歌の戦いは、いかなる意味でも、つまり平和(民主主義)的にも弁証法(マルクス主義)的にも解決を見ず、大島は一貫して合唱(対立の和解)を批判する。同作での春歌が、もっぱら伊丹十三演じる高校教師によって独唱され、彼を死へと導く教え子の男子高校生(荒木一郎)によって継承される一方、軍歌は、飲み屋に集う男性らによって合唱され、さらにその延長線上に教師の通夜の席でかつての同級生らによって歌われる全学連の「国際学連の歌」――その場に居合わせた荒木を頑なに俯かせしめるもの――やその60年代後半版であるフォークソングの合唱が加わるだろう。吉田日出子演じる女子高校生がボソボソと孤独に歌う朝鮮人従軍慰安婦の記憶を秘めた歌が、大島的な歌の最たるもので、それは決して和解(合唱)を認めず、できるのは、ただ歌い継ぐことのみだ。『太陽の墓場』(1960年)で佐々木功によって歌われる「流民の歌」に始まる大島作品における歌の主題は、今後のさらなる検討に値するし、それは音楽というより言語の問題に属するものと位置づけられねばならない。安易なコミュニケーションを許さない歌と言語……。先の発言で意外にも(?)大島の「ディスカッション嫌い」が明らかとなったが、彼はしばしば「音楽嫌い」をも公言しているのだ。

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掲載: 2013年03月07日 20:50

ソース: intoxicate vol.102(2013年2月20日発行号)

文・北小路隆志

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