生誕200周年を迎える ワーグナーとヴェルディ、 意外な共通点

ふたりの巨人、生まれる
2013年は様々な作曲家の記念イヤーでもあるのだが(例えばブリテン生誕100年とか)、世界的な話題はやはり19世紀オペラ界のふたりの巨人、リヒャルト・ワーグナーとジュゼッペ・ヴェルディ(ふたりの並びは誕生日順です)の生誕200周年だろう。このふたりの作品が現在のオペラハウスのレパートリーから消えてしまった状態を想像することは出来ない。その存在感の大きさは、交響曲の世界におけるベートーヴェン、宗教曲におけるバッハに相当するだろう。
さて、ふたりが生まれた1813年にタイムスリップしてみよう。フランス革命から頭角を現したナポレオン・ボナパルトはフランス皇帝としてロシア、プロイセンなどと戦いを続けていた。1812年のロシア戦役で大敗したナポレオンの治世は最終段階を迎えており、1813年10月にはライプツィヒの戦い(諸国民の戦いとも呼ばれる)が行われ、ナポレオンはプロイセン、ロシア、スウェーデンなど連合軍の前に敗れ、ドイツ諸国はナポレオン支配から解放された。そんな時代であった。
リヒャルト・ワーグナーは1813年5月22日ライプツィヒに生まれている。そしてジュゼッペ・ヴェルディは1813年10月10日、北イタリアのブッセート近郊のレ・ロンコレ村に生まれた。ヴェルディが生まれた時、レ・ロンコレ村はフランス支配下のパルマ公国の一部だったので、フランス市民として生まれた事になった。以前にそのレ・ロンコレ村を訪問した時に、ヴェルディがオルガンを弾いていた教会を見学したことがある。「ナポレオン軍が通過する時には、女性や子供はこの教会の塔に隠れていたんですよ」とガイドの方が教えてくれた。
人生での共通点
共通点は、まずオペラ作曲家となるまでに学校での音楽教育を受けていないという点にあるだろう。ワーグナーは子供時代からピアノ曲を作曲、ベートーヴェンの交響曲のピアノ編曲などもすでに手掛けていた。ライプツィヒ大学で哲学と音楽を学ぶも中退。そして聖トーマス教会のカントル(遡ればヨハン・セバスティアン・バッハもこのカントルだった)であるテオドール・ヴァインリヒに学んでいる。
ジュゼッペ・ヴェルディのほうは、レ・ロンコレ村にある教会のオルガニストに鍵盤楽器とオルガンの奏法を学び、才能の片鱗を見せていたが、18歳の時にはミラノの音楽院の試験を受けて不合格。スカラ座でも活動していたヴァンチェンツォ・ラヴィーニャの個人教授を受けるようになる。このようにふたりの音楽家人生の出発は必ずしも華やかではなかった。
またオペラ以外の作品も知られていない。ワーグナーには「交響曲ハ長調」が、ヴェルディにも初期に「シンフォニア ハ長調」や「ピアノと管弦楽のための変奏曲」「弦楽四重奏曲」なども残されているが、現在ではほとんど演奏されない。オペラ以外で演奏されるのは、ワーグナーの場合は「ジークフリート牧歌」、ヴェルディの場合は「レクイエム」が中心だ。
そして、オペラ・デビューまでもかなりの忍耐と時間が必要だった。ワーグナーの場合は『婚礼』『妖精』『恋愛禁制』という初期の3作品はいずれも注目されず、ラトヴィアのリガで指揮者などをしながら作曲を続けた。ヴェルディも『オベルト』『1日だけの王様』が失敗し、しかもその間に、子供と愛妻を失うという悲劇にも見舞われた。
そのふたりの状況が好転するのは、意外にも同じ1842年のこと。ワーグナーはドレスデンで上演した『リエンツィ』の初演(10月20日)が成功して、ようやくその存在を認められた。ヴェルディは失意の中で出会った旧約聖書を元にしたオペラ『ナブッコ』がやはり1842年3月9日にミラノ・スカラ座で初演され、特にそのオペラの中の合唱曲「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」が熱狂的な反応を引き起こし、一躍注目の人となったのだった。