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特集

寺山修司──偉大なる挙動不審者

カテゴリ : BLACK OR WHITE

掲載: 2013年05月09日 21:21

ソース: intoxicate vol.103(2013年4月20日発行号)

文・東琢磨


天井桟敷館の前に立つ寺山修司。地下には小劇場があった。

非挙動不審者になることの不可能性

「いま、ここ」は挙動不審者であふれかえっている。しかし、そもそも挙動不審とはどういうことなのか。行政や治安の用語では、住所が分かった途端に「挙動不審者」ではなくなるという話を聞いたこともある。シューカツもそうだろう。挙動不審(者)である、のか、はたまた、なるのか。むしろ、人は挙動不審者といわれないことを目指すように訓育されているのではないか。

挙動不審者とは、存在そのものを、特定の誰かが恣意的に名指すものだから、人はむしろ「非挙動不審者」になるべく日々奮闘を強いられているということにもなるということだ。ある種の業界で流行の「承認(欲求)」は、本来は「(社会的)承認」のプロセスを細かく解析することが要求されているわけでもなんでもなく、「承認」を要求され、欲求すること自体を問題としなければならないはずだ。「もてる」とかなんかもそうだ。ホントに「もてたい」か? 不特定多数の「異性」に好かれたいという感情・欲求が当然のようにいわれているように思うが、この場合、「もてる」は「承認される」の翻訳語である。少なくとも私は、好きな人には好かれたいし、気に入られたいし、嫌われたくはないけど、不特定多数に好かれたいなどとは思わない。臓器移植もそうだ。大嫌いなやつ、あるいは会ったら嫌いかもしれない不特定な人類とかの誰かにオレの臓器なんか絶対にやらない。そんなにお人好しじゃない自分を分かっているつもりだ。

国単位とかだと、やたらと仮想敵だのなんだのと想像力が過剰になるくせに、簡単なことの想像力はうまい具合に剥奪されていないか。できてもいない人間がさもできているかのように振る舞うことを要求され、どこかでバランスがぶち毀れる。そんな空気を感じるのだ。「非挙動不審者」になるための審査が厳しすぎる。非挙動不審者になることの方がよほど不可能なのだ。だから、世間は挙動不審者で溢れかえる。

寺山的な原理では、だからこそ、いまだ続く演劇のなかには、寺山のフォロワーはいない。もちろん、優れた演劇はいまだにたくさんあるけど。しかし、それとは別に、日常が、寺山が望んだのとは違うだろうかたちで、しかし、寺山化しているのだ。その状況に、彼はどう対しただろうか、ということだ。非挙動不審者になりたくてたまらない挙動不審者の群れと、自覚的な挙動不審者のあいだ。

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