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寺山修司──偉大なる挙動不審者(2)

偉大なる挙動不審者

さて、偉大なる挙動不審者とでもいうべき寺山修司は1983年に亡くなっている。劇作家・演出家、映画監督、詩人・歌人、エッセイスト…。自称「職業は寺山修司」。今でもある種のムードを漂わせたなにかに「寺山的だなあ」と感想を漏らしてしまう人も少なくないほど、その存在は大きい。1935年の生まれだからあまりに早い死であるというべきだし、気がついたら寺山が亡くなった年齢を過ぎてしまっている自分に気づいたりするのだが、そんなことはどうでもいい。もし、寺山が生きていたら、今の時代をどのように見るかということをふと考えてしまうのだ。

おそらく「演劇」という範疇から論じられることはないだろうが、たとえば「オレオレ詐欺」などを寺山なら歓喜して論じることだろう。そして、一方で、青森出身者として、震災および原発事故そのものと東北について、その後のサウンドデモなどの形態や官邸前行動、経産省前テントなどの動きにも、独特な反応を見せてくれたのではないか。そのことで、私たちの日常が揺すられもしただろう。そのようなことが成り立たない時代の不遇を感じるのだ。

「演劇」としてみた場合に寺山の「電話演劇」などの直系ということにもなるだろうオレオレ詐欺の登場は、実はシステム全体がオレオレ詐欺であることを明るみに出すものであったが、そのことを明確に宣言する想像力が社会に不在なのだ。想像力が不足しているというよりも、想像力と自覚されない貪欲さを名指す想像力が欠けている、ある種の想像力の過剰に、想像力の必要性を問う側が追いつけていない。そういうことかもしれない。

さて、寺山が亡くなってすぐに刊行された『寺山修司演劇論集』(国文社、1983年)は、出てすぐに読み込んだ本だが、今、読み返してみてもめっぽうおもしろい。暫定的に、というべきだろう、「原理篇」と「実践篇」にわかれ、前者には「観客論」「俳優論」「劇場論」「戯曲論」などが並ぶ。後者は、自作や、タデウシュ・カントールやアントナン・アルトーを論じた文章が集められている。

オレオレ詐欺との関連では、「犯罪における"観客"の研究」もおもしろい。「劇場型犯罪」などというが、オレオレ詐欺もそれぞれたったひとりの観客のために遂行される演劇であり、その観客は法外なギャラ=入場料を要求されるのだ。押し掛け電話演劇。考えてみれば、ずいぶんと贅沢な演劇なわけだが、オレオレ詐欺を「劇場型犯罪」と分類することはないだろう。それはいまだに、寺山の「(非)劇場」論に、「識者」が追いついていないにもかかわらず、現実ははるかに進んでいるということでもあるだろう。

寺山が亡くなったのが1983年5月。この本が刊行されたのが同じ年の11月。追悼の意を込めて編集、刊行されたことは間違いがないのだが、つい先日亡くなった文化人類学者の(というか、この人も「知」の挙動不審者だったというべきだろうか)による、あとがきに相応する「寺山修司 知的領域の侵犯者」という一文が付されている以外は、本の成立経緯はその一文の中にも一切記されていない。考えてみると不思議な本なのだ。

長く不思議に感じるままに放置していたのが、この本に集められた「原理」的な部分と、さきにふれた「寺山的」なイメージのあいだに、私自身が感じる齟齬というか一致しないのではという違和感だったのだが、今、あらためて思考を再開させてみると、明確に言葉にはすぐにはならないまでも、この「原理」と、かたちになったイメージのあいだに、ある程度の必然性を感受できるようになっていた。それはどういうことなのか。

そこをまず解く鍵が、「挙動不審」ということなのかもしれない。寺山は「市街劇」『ノック』で住民と警察沙汰になり(1975年)、1980年には「取材」で迷い込んだ路地から私有地に入り込み逮捕・略式起訴。「覗き」と報道されている。1980年の「事件」はまざまざと記憶しているが、くだらん事件とも思いつつ、多くの人が「寺山修司」らしいと感じたのが実態ではなかろうか。

山口昌男は、彼ならではの、そして魅惑的な「侵犯者」という用語で寺山を語っているし、その論も非常におもしろく、もっともだと思う。しかし、あえていえば、寺山が「侵犯者」であるのは、そもそもの存在の「(挙動)不審」性に、他の誰も不可能であるぐらいに深く強く自覚的で、そこを絶対に譲らなかったからではないか。

寺山は、演劇のなかで、演劇を、演劇から、侵犯しただけではなく、常に既に挙動不審であり続けたのだ。挙動不審であることは、さきに述べたように実は放っておけば誰でもがそうである存在性だ。だから、ある意味で寺山には誰にでもなれる。問題はその強度なのだ。誰でも挙動不審に「なる」のではなく、誰でもが既に「である」のだ。だからこそ、自覚的に侵犯者へと変容しないように、挙動不審者はつくりあげられ処罰される。

『演劇論集』には、「序論 なぜ演劇なのか、呪術なのか」という一文が冒頭に置かれていて、これは前半の「原理篇の、そして全体の「序論」でもあるかのように読むことができる。この一文は見事なまでに、本書の各文章を凝縮したものともなっていると同時に、「いま、ここ」でもまったく古びていない。そして、この文章が鮮やかに理論的であるにもかかわらず呪術的であることに、あらためて気づかされた。体験として語られる、オランダのハンス・ブルマという男性とその妻のエピソードなど、寺山の面目躍如というべきだろう。

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カテゴリ : BLACK OR WHITE

掲載: 2013年05月09日 21:21

ソース: intoxicate vol.103(2013年4月20日発行号)

文・東琢磨

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