ひばりとジャズ、そしてシャープ──原信夫が見つめた「美空ひばり」

昭和36年(1961年)
江利チエミの舞台でジャズを歌う
江利チエミは休暇をとっていたアメリカから帰国した。少女ジャズ歌手として衆目を浴びた彼女だったが、高倉健との結婚を機に引退をほのめかし旅立った、久々の長期休暇だった。ただ8年前と同じくその時もデルタ・リズム・ボーイズを伴っての凱旋で、いくつかのコンサート会場で共演することも決まっていた。こうしてごく短かかった「引退」の喪は明け、再び舞台への情熱をたぎらせていった。開催されたチエミとデルタの共演コンサートには専属バンドの原信夫とシャープス&フラッツ(以後「シャープ」)が伴奏につき、すぐに『江利チエミ&ザ・デルタ・リズム・ボーイズ』とタイトルされたLP盤に成型された。昭和36年(1961年)初頭の素描である。
同じ年の4月。デルタのカール・ジョーンズが今度は単独でやってきて、チエミとスタジオに入りシックスレモンズやキング・オールスターズと『チエミとカール・ジョーンズ』を収録。オールスターズとは原信夫、伏見哲夫、大西修、竹内弘、武藤敏文らシャープからの選抜隊で、全編で趣向を凝らしたじつに粋なジャズ・アルバムに仕上げられた。師匠のジョーンズは一連の舞台と録音につき合い、秋にもチエミの公演について廻り、京都花月劇場では飛び入りした美空ひばりのピアノ伴奏までやってみせた。チエミのことを本当の姉妹のように思っていた美空ひばりは、ちょうど京都で映画撮影に入っていて、時間を調整しこの公演を覗きに来たのだった。そして《さのさ》に続きジャズもひと節、チエミとの共演でやってみたりした。
そんなチエミの舞台へひばりの陣中見舞いがあったある夜、ひばりの母・加藤喜美枝と連れだち祗園で名物の懐石料理屋で腹ごしらえすることになった。もちろん原信夫も誘われたが、この同行がのちに原にとって人生の転機となる大事件へと発展する。食事をしていると、やおらお嬢(=ひばり)のママ(=喜美枝)が「ねえ原さん、たまにはお嬢の伴奏もしてやってよ」と切りだした。少し酔ったチエミも調子良く「そうよツカさん、やってあげなさいよ(本名を塚原といって、親しい者からは〈ツカさん〉の愛称で呼ばれた)」と重ねた。場の空気を乱さぬよう「はいはい、分かりました」と言い流しそれで終わった、つもりでいた。