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Claudio Abbado――類ない「Horizontal Maestro」(3)



vsヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-89年)



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©YuriBogomaz



89年10月8日、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は同年7月に亡くなったヘルベルト・フォン・カラヤンの後任の首席指揮者を当時56歳のアバドと決めた。事前にはロリン・マゼールやジェイムズ・レヴァインらの名が取り沙汰されていたため「意外」と受け止めた向きもあった。しかしシンフォニー一辺倒ではなくミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場などのシェフを務め、ロンドンのオーケストラ(カラヤンはフィルハーモニア管弦楽団、アバドはロンドン交響楽団)も率いたなど経歴上、2人の間には共通点の方が多かった。

徹底的に異なるのは3点。先ずは、若いころ「トスカラヤン」と呼ばれたように、カラヤンはトスカニーニ流のヴァーティカルな主従関係を楽員との間に築き、「帝王」のカリスマ性でベルリン・フィルの権威を世界に高めた。二つ目はカラヤンが「終身」にこだわったポストを12シーズンで手放し、22歳下のサイモン・ラトルに禅譲したこと。「ミラノ・スカラ座から数えて30年以上、大きな組織を任されてきた。人々と接触したり、新曲に出会ったりするたびに必ず愛してしまい、自分のことができない。ベルリン在任中から『もう常任ポストは卒業する』と公言し、それを実行したまで」と、アバドは涼しい顔だった。ラトルの「退き際」もアバドの先例にならったものだろう。

最も重要なのは、第3の違いである。アバドが在任した1990-2002年はベルリン・フィル全体で約40%の楽員が入れ替わる、大きな世代交代の時期に当たった。ナチス政権の台頭でユダヤ系楽員が一掃され、アーリア系楽員も少なからず戦死したのを受け、ドイツ敗戦後に大量採用した楽員が一斉に定年を迎えたのだ。普通なら「困った」と思うところが、アバドには「チャンス」と映ったに違いない。先ずCOEやマーラー・チェンバーの若く優秀な奏者を次々、ベルリン・フィルのオーディションに招き「多国籍名人集団」のヴァージョンアップを図った。次いで93年、フライブルクやシュトゥットガルトで室内楽の教授として評価を高め、モダン(現代の仕様の)楽器とピリオド(作曲当時の仕様の)楽器の双方を熟知するライナー・クスマウルを5シーズン限定のコンサートマスターに招き、作品の時代様式に合わせた奏法の多様化を推進した。SP盤からLP盤への移行、ステレオ録音の開発などハイファイ(高忠実度)再生のブームを背に、すべての作品に全音均等の輝かしい音響を追求した前任者の演奏様式をここで、きっぱりと否定することになった。

当然、古参楽員の反発は大きかった。リハーサルの声が小さいと文句を言い、カラヤン派の楽員だけで指揮者なしのアンサンブルを組み、日本へ出かけたりもした。だが2000年にアバドが病身をおしてツアーに同行、慶応大学付属病院で点滴を受けながら、ベルリン・フィルにとり日本で初のピット演奏となった「トリスタンとイゾルデ」(ワーグナー)全曲を指揮し続けた日々、アンチだった楽員も心を動かされずにはいられず、全員一丸の凄まじい音楽が出現した。筆者は今も、終演後に楽器ケースを抱え、恍惚とした表情で都心の飲食店街を飲み歩くスター楽員たちの姿を覚えている。オーボエのアルブレヒト・マイヤーは後に「1人の人間が命を賭した音楽に、感動しない楽員はいなかった」と振り返った。

アバドによる「体質改善」は功を奏し、HIP(歴史的情報に基づく演奏)の推進者としても次世代に属する後任、ラトルへのバトンタッチは円滑に進んだ。現コンサートマスターの1人、樫本大進がクスマウルの生徒だったことにも、アバドの先見の明を実感する。



カテゴリ : BLACK OR WHITE

掲載: 2013年09月09日 18:00

更新: 2013年09月09日 18:00

ソース: intoxicate vol.105(2013年8月20日発行号)

文・池田卓夫(音学ジャーナリスト)

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