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ルー・リード 追悼の言葉(2)



文学と共に、ルーはロックンロールが好きだった。その頃は、シリアス(真面目)な芸術とポップスを区別する人が今よりも多かった。ロックは売れるもの、流行物としてしか見られていなく、言葉はロマンチックな内容のものばかりだった。コール・ポーターのように、もっとソフィスティケートな言葉使いをするソングライターはブロードウエイや映画の世界にいたが、ロックにはまだいなかった。レナード・コーエン、ボブ・ディラン、そして後にジュディ・コリンズやジョニ・ミッチェルは大学のフォーク・ムーブメントから現れた人達だった。イギリス、アイルランドやスコットランドの伝統的な民謡の言葉の影響をうけながら、新しい文学的な表現をポピュラー・ソングの世界で繰り広げていった。しかし、ルー・リードは、彼らとは違って、ウィリアム バロウズ(『裸のランチ』の作家)、 ヒューバート・セルビー Jr(『ブルックリン最終出口 』の作家)、T.S. エリオット(『荒地』の作家)、そして、デルモア・シュワルツの影響をロックのビートの曲で作りたかったのだ。ロックのビートで歌われる詩はサウンドでもある。

60年代前半にPickwickという当時のヒット・ソングの模造品をスーパー等で売るレコード会社があった。大学卒業後、ルーはまず、そこでソングライターとして仕事を始めた。彼は短時間でポップ・ソングを作る技術をここで学んだ。これは後でやくにたった。ルー・リードの文学的なテキストの後ろからはアメリカン・ポップスが聴こえてくる。ルー・リードの『ベルリン』を自分で演奏して見ると良く分かった。

この頃、ルー・リードはジョン・ケールと出会った。ジョン・ケールは現代音楽家クセナキスから作曲を学び、ラ・モンテ・ヤングが始めた最初のミニマル・ミュージックのグループのメンバーだった。ジョンはルーが書いていた『ヘロイン』等の曲に刺激を受け、二人は一緒にグループを作る。彼らの友人で、前衛的な音楽家トニー・コンラッドは彼らにヴェルヴェット・アンダーグラウンドと命名する。初期の頃には現代音楽からフリー・ジャズ的な色々な音楽の実験をやっていた。その頃の音源は、後にジョン・ケールの実験音楽CDとして発売された。

ジョン・ケールは英国ウエールズから来た人だった。ニューヨークには当時数人のカリスマ的なリーダーがいて、ラ・モンテ・ヤングはその一人、アンディ ・ウォーホルもその一人だったと語っている。彼らはウォーホルの映画の仕事をしていた人達と出会い、仲間として迎えられる事になる。ウォーホルは ルー・リードの曲を心から愛して、マネージャーとなり、プロデューサーとなった。メンバー達の為に楽器を買い、毎日のようにレストラントでごちそうした。

ウォーホルはルーにある時、『今の時代で行っている事はおそらく私達の人生では二度と見る事が出来ないよ』と語った。これは僕も他のアーティストからも聞いたことがある言葉だった。ウォーホルはルーに、『なぜ、そんな怠慢なんだ。もっと曲を書きなさい』と言った。ルーは多くのインタヴューでウォーホルは天才だったと言っている。彼と会話をするだけでも、今まで見えていなかった事が見えたり、気が付く事が出来た。ウォーホルは人の作品に、いつも良い面を見て、励ました。悪い事を言うのは聞いた事がなかった。

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドをやっていた4年間に、一つの芸術革命が起きた。革命はその後すぐに、デヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージック、ブライアン・イーノ、等に引継がれ、70年代の実験的なロックから環境音楽が出来る土台となった。そして、このヴェルヴェットの4年間にはすでにルーの作品で最も知られるようになる多くの曲がラフな状態で残されていた。多くの曲はまだその当時、未発表だった。70年代になって彼のソロ・アルバムでそれらの名曲が完成された形で発表されたのだった。僕にとってルー・リードの『ベルリン』は、60年代ー70年代の生活を、最も素直でやさしく表現した名作だ。この作品の曲は何度も演奏した。その時代でニューヨークに生きた人々が感じた事を、最も直接的に伝えられて、タイム・トラヴェルが出来るような曲集だと思う。『ベルリン』のプロデューサー、ボブ・エズリンは後にピンク・フロイトの『ザ・ウォール』で同じタイプの編曲をしている。



カテゴリ : Exotic Grammar

掲載: 2014年01月14日 10:00

ソース: intoxicate vol.107(2013年12月10日発行号)

text:AYUO

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