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特集

GEORGE DUKE

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2014年03月12日 18:01

更新: 2014年03月12日 18:01

ソース: bounce 364号(2014年2月25日発行)

文/金澤寿和



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昨2013年8月5日、LAの病院で一人のミュージシャンが息を引き取った。ジョージ・デューク、享年67歳。慢性リンパ球性白血病だった。

体調が良くない——そんな噂は何となく耳にしていた。ただ筆者はその前年に、2度も彼のステージを見ている。3月に旧友アル・ジャロウと共演。12月には盟友スタンリー・クラークとのクラーク/デューク・プロジェクトで来日していたのだ。だからそれほど深刻には受け止めていなかった。ショックだった。

改めてジョージ・デュークの歩いた軌跡を辿ってみる。するとその振幅の大きさ、音楽性の深さは、もはや〈フュージョン〉なんて生易しいモノではないことが瞬時にわかる。エピック移籍第1弾『From Me To You』(77年)の復刻オビには〈ファンキー・クロスオーバー大爆発〉とあるが、それでもまた物足りないくらいだ。何せ彼の視野は、遠くブラジル音楽にまで及んでいたのだから……。



さまざまな才人から吸収した感性

46年、サンフランシスコのベイエリアに生まれたジョージ・デュークは、幼少の頃に観たデューク・エリントンに憧れてピアノを習得。ハイスクール時代から複数のジャズ・バンドで演奏しはじめた。サンフランシスコ音楽院の学生だった66年に録られた初リーダー作も、オーセンティックなピアノ・ジャズ作品だったそうである。しかしその異才ぶりが芽吹くまでに、あまり時間は掛からなかった。

ジョージが最初に接近したのは、変拍子を得意にするドン・エリスのビッグバンド。その後間もなくヴァイオリン奏者のジャン・リュック・ポンティと邂逅する。60年代のジャズにヴァイオリンというと、先人ステファン・グラッペリがいたとはいえ、まだまだ異端。しかもポンティは電化の道を歩きはじめたマイルス・デイヴィスに追随し、エレクトリック・ヴァイオリンで新しいジャズ表現をめざしていた。

ジョージがエレキ・ピアノを弾いたのも、実はポンティとの共演がキッカケだ。彼はもともとアコースティック・ピアノにしか興味を示さなかったが、ある日ポンティとのギグへ行くと、フェンダー・ローズしか用意されていなかった。これはその日のステージをライヴ録音する予定だったプロデューサーの画策。ジョージは怒りつつもローズ・ピアノでステージを務め、プロデューサーが正しかったことを悟る。それが69年のライヴ盤『Jean-Luc Ponty Experience With The George Duke Trio』の誕生秘話だ。

そのポンティを介して知り合ったのが、ロックの奇才フランク・ザッパである。難解、変態、アヴァンギャルド……と形容されるザッパゆえに、ジョージも最初は戸惑ったらしい。事実、70年作『Chunga's Revenge』や翌71年のサントラ『200 Motels』には彼のクレジットが認められるが、同年録音のライヴ盤には不参加。この時期ジョージはキャノンボール・アダレイのクィンテットでジョー・ザヴィヌルの後任を務めたり、クインシー・ジョーンズのグループでもプレイするなど、自分の進路を模索していたようだ。初の本格的ソロ作『Save The Country』を出したのも70年のこと。その後ザッパの要望に応えてマザーズに加入し、75年作『Bongo Fury』まで活動を共にして、ロックやジャズ、ソウルというありきたりな括りを軽々超越していくザッパの感性に多大な影響を受けた。シンセサイザーを弾いたり、ヴォーカルを取るようになったのもこのマザーズ時代からで、一時はザッパの右腕として大きな貢献を果たしている。

一方、71年末に契約を交わした独MPSでは順調にソロ・アルバムを作った。こちらも確かにクロスオーヴァー・スタイルだが、ザッパがロック・ベースならMPSはジャズ寄りの展開。なかでもリターン・トゥ・フォーエヴァーを離れたアイアート&フローラ・プリム夫妻との交流を通じて、ブラジル音楽への憧憬を形にしはじめたことは特筆に値しよう。守備範囲は後のエピック期と同じでも、インディペンデントな欧州ジャズ・レーベル発信のためか、より過激でエクスペリメンタルなコトをやっている。当時の楽曲が90年代以降レア・グルーヴ方面で再評価され、ア・トライブ・コールド・クエストやピート・ロック、ラージ・プロフェッサーらからサンプリング・ソースに使われたのも、剥き出しのジャズ・ファンク・スピリットが刺激的に響くからだ。後にジョージ・デューク一派として重要な役割を果たすンドゥグ・レオン・チャンスラー(ドラムス)やバイロン・ミラー(ベース)とも、この時期に遭遇している。

76年夏には、マイルス・デイヴィス・グループ〜マハヴィシュヌ・オーケストラを経てトップ・ドラマーの座に君臨していたビリー・コブハムと双頭バンドを組み、ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演。そのまま欧州ツアーに出て、その模様をライヴ・アルバムとして発表した。この時のメンバーは、ウェザー・リポートにいたアルフォンソ・ジョンソン(ベース)と、若き日のジョン・スコフィールド(ギター)である。このプロジェクトは当時のフュージョン系ミュージシャンたちに大きな影響を与えるが、当のジョージにとっても、マザーズとの訣別やMPSからの卒業を意味する特別なモノだった。



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ソロ・キャリアで振り切った方向性

実験と経験を重ねる修業の時を終え、いよいよミュージシャンとして勝負に出る——かくしてジョージは新たにエピックと契約し、ソロ・キャリアを追及。84年までに、今回〈追悼リイシュー〉された9作品を次々に産み落としてしていく。それと同時にプロデューサーのキャリアをスタート。ブラジルのトロンボーン奏者ラウル・ジ・スーザ、黒人ジャズ・ヴァイオリニストのマイケル・ホワイト、そしてフローラ・プリムのソロ作と、まずは自分の得意なトコロから制作ワークを開始するのだ。

先にソロ作品をチェックしてみるともう、先述した移籍作『From Me To You』(77年)から、MPS時代とは圧倒的に熱量が違うのがわかる。ひと口に言えば、楽曲がシンプルかつキャッチーになり、ヴォーカル・チューンが増加。リズムもファンキー指数が高まり、思わず踊り出したくなるナンバーが増えた。ンドゥグ、バイロン、マイケル・センベロ(ギター)との4リズムでバンド・サウンドを固め、ゲストはキャノンボールの所で知り合った超絶ベーシストのスタンリー・クラーク、ヴォーカルは同年インディーからソロ・デビューを果たすダイアン・リーヴス(ジョージの従妹/メジャー行きは10年後)に集約するというキャスティングも功を奏した。考えてみればジョージは、マハヴィシュヌ・オーケストラやリターン・トゥ・フォーエヴァー、ヘッドハンターズ、トニー・ウィリアムス・ライフライムといったマイルス門下生たちのバンドを、ザッパの下から観察していたワケだ。ジャズ・ミュージシャンによるロック/ファンク表現を、ロックの側から見ていたのである。それは、ザッパに誘われなかったら自分が身を置いていたであろうシーンの動向を、外から客観視することに他ならない。その結果、彼が選んだのは、アース・ウインド&ファイアやジョージ・クリントン率いるPファンク勢をフォローすること。そこにどこまでジャズ表現やロックのエッセンスを盛り込めるか、それが彼のゴールに据えられた。もちろん、ジョージ・ベンソンやノーマン・コナーズなどいち早くヴォーカル・ヒットを飛ばしたジャズ出身者、ジェフ・ベックのようにクロスオーヴァー表現に転じて成功したロック・ミュージシャンの動きも、すべて横目で見ていたに違いない。

こうして新しい方向を見定めたジョージだから、成果もすぐについてきた。移籍第2作『Reach For It』から、重厚なファンク・マナーに則ったタイトル曲がR&Bチャート2位を記録したのである。このアルバムはフローラ・プリムやジーン・カーンの匿名参加で知られるが、ンドゥグが提供したサンタナばりのラテン・フュージョン“Hot Fire”の存在も忘れ難い。そしてこの路線がラウル・ジ・スーザやフローラらのプロデュースを経て、ミルトン・ナシメントやシモーネ、トニーニョ・オルタらと共演した『A Brazilian Love Affair』(80年)に結実する。

もちろん前後にも『Don't Let Go』(78年)や『Follow The Rainbow』(79年)、『Master Of The Game』(79年)など好作を連発。インストのジャズ・ファンクから歌モノ中心のファンキーなポップン・ソウル路線へシフトしただけでなく、当時大流行のディスコ・シーンへのアプローチさえ試みていた。制作者としても評価が固まり、ブレッカー・ブラザーズからシーウインド、ブラックバーズ、ディー・ディー・ブリッジウォーター、そしてテイスト・オブ・ハニーなどを手掛けるが、年を追うごとにR&B色が濃くなっていくのがわかる。



ヒット請負人としてのピークへ

その後の飛躍が、盟友スタンリーとのクラーク/デューク・プロジェクトだ。ドラム以外はすべて2人で賄う音楽的チャレンジに富んだ作品ながら、同時に高いポピュラリティーを有し、“Sweet Baby”が全米19位/R&B6位の大ヒット。アルバムはジャズ・チャート首位に立った。

クインシー・ジョーンズやモーリス・ホワイトといったサウンド・クリエイターに倣って、クロスオーヴァー指向のブラック・ミュージックを標榜したジョージだから、この成功は自信になったはず。続くソロ作『Dream On』(82年)は勢いのあるポップ・ファンク作となり、“Shine On”がヒット。特に日本ではディスコでブレイクし、ジョージの名を一躍広めた。ジャケットに使われたのは、ジョージ自身が開発に参加したショルダー型のシンセ〈クラヴェイター〉。電子工学を学んだ時期もある彼は、こうした新しい楽器の考案にも長けていた。

コンセプチュアルに創られた『Guardian Of The Light』(83年)やエピック最終作『Rendezvous』(84年)を挟んでは、ベースにルイス・ジョンソン(ブラザーズ・ジョンソン)も参加したスペシャル・バンドで2度来日。最初はデニース・ウィリアムス、次はフィリップ・ベイリーというように、その時々にプロデュースしていた大物シンガーを帯同させたことも話題になった。プロデュース・ワークも絶好調で、ジェフリー・オズボーンやラリー・グラハム、ルーファス、シスター・スレッジ、ステファニー・ミルズ、アンジェラ・ボフィル、メリッサ・マンチェスターらを立て続けに。先のデニース・ウィリアムスでは、映画「フットルース」(84年)のサントラに提供した“Let's Hear It For the Boy”が全米No.1を獲得している。恐らくこれが、ジョージのヒットメイカーとしてのピークだろう。86年にマイルス・デイヴィス『Tutu』をプロデュースしたのを機に、その後はアル・ジャロウやダイアン・リーヴスなど実務的な仕事が増えていくようになる。

ソロ・キャリアも、それまでのような派手な動きはなくなった。が、アルバム・リリースはエレクトラ〜ワーナーを経てコンスタントに続けられ、クラーク/デュークを断続的に復活させながら、ここ10年は自分のレーベル=BPMからリーダー作を送り出し、スムースジャズ・チャートの常連になっていた。先の急逝も、最新作『DreamWeaver』を出して間もなくのことである。

このようにジャズ・ピアニストからスタートし、軽々とジャンルを超越しながら、全米トップを生む人気プロデューサーにまで昇り詰めたジョージ・デューク。しかしその基本的スタンスは、弛まぬ努力を続ける鍵盤奏者であり、探究心を忘れぬサウンド・クリエイター。また大らかな笑顔が似合うエンターテイナーでもあった。今回リイシューされるエピック期の作品群でそれを検証しつつ、改めてその早世を悼みたい。



▼ジョージ・デュークの初期演奏作を一部紹介。
左から、ジャン・リュック・ポンティとのライヴ盤『Jean-Luc Ponty Experience With The George Duke Trio』(Pacific Jazz)、フランク・ザッパの70年作『Chunga's Revenge』(Reprise)、ビリー・コブハムとのライヴ盤『Live On Tour In Europe』(Reprise)

 

▼ジョージ・デュークの編集盤。
左から、エピック時代のベスト盤『The Essential George Duke』(Epic)、ブラジリアン風味の楽曲を集めた編集盤『Brazilian Fusion』(Wounded Bird)

 

▼ジョージ・デュークのプロデュース参加作を一部紹介。
左から、フローラ・プリムの73年作『Butterfly Dreams』(Milestone)、ラウル・ジ・ソウザの77年作『Sweet Lucy』(Capitol)、マイケル・ホワイトの77年作『The X Factor』(Elektra)

 

▼ジョージ・デュークのプロデュース作品を一部紹介。
左から、シーウインドの79年作『Seawind』(CTI)、ディー・ディー・ブリッジウォーターの79年作『Bad For Me』(Elektra)、テイスト・オブ・ハニーの80年作『Twice As Sweet』(Capitol)

 

▼ジョージ・デュークの演奏/プロデュース参加作を一部紹介。
左から、マイケル・ジャクソンの79年作『Off The Wall』(Epic)、シスター・スレッジの83年作『Bet Cha Say That To All The Girls』(Cotillion)、ステファニー・ミルズの84年作『I've Got The Cure』(Casablanca)、渡辺貞夫の87年作『BIRDS OF PASSAGE』(ワーナー)、アニタ・ベイカーの2004年作『My Everything』(Blue Note)、ジル・スコットの2007年作『The Real Thing: Words And Sounds Vol. 3』(Hidden Beach)、ティーナ・マリーの2009年作『Congo Square』(Stax)

 

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