想像の調教
冨田勲の声の音楽
私は声楽家である。自分の声をコントロールし、それを音楽表現の手段としている訳であるが、この「調教*」はなかなか難しい。狙ったピッチからわずかに外れてしまう、繰り返し練習しないと歌えないほど難しいのに、練習しすぎると声が疲れてしまう、風邪などで声が出づらくなる、などメンテナンスも含めて多くのことに気を遣わなくてはならないからだ。では、録音なら思い通りになるのではないか?私は、自分自身の声の多重録音による2枚のCDを録音、編集した経験があるが、その時痛感したのが、録音された声の「調教」の大変さだ。一回限りのライヴと異なり、繰り返し聴取されることを前提とすると、わずかな傷も目立たないように、重箱の隅をつつくような編集作業を延々と続けなくてはならないからだ。
ましてや、シンセサイザーなどで人工的に合成された「声」の調教は、さらに気の遠くなるような作業に違いない。まず声そのものから電子的に作らなくてはならないからだ。しかし、その調教が成功するとどうなるか?今回発売される冨田勲の『展覧会の絵Ultimate Edition』『イーハトーヴ交響曲 blu-ray』がその回答だ。
『展覧会の絵』の原曲はロシアの作曲家、ムソルグスキーによるピアノのための作品である。トランペット・ソロで始まる有名なオーケストラ版はラヴェルによる編曲だ。むしろ、このオーケストラ版が原曲だと思っている人も多いのではないか。そして、冨田勲はこの冒頭をコーラス風の音色で始めた。他の多くの部分でもコーラス風の音色が使用され、合唱曲さながらのアレンジが施された場面も多い。おそらく、この曲に頻出するコラール風な楽想と、重厚なアカペラのハーモニーによるロシア正教の典礼音楽との関連を意識した結果であろう。冨田版『展覧会の絵』のアレンジは1975年、アナログ・シンセサイザー全盛の時代である。サンプリングの技術が一般化していなかった当時、人声に似た音色をプログラミングするのは至難の技だったに違いない。しかし、このアルバムに出てくる「声」は多彩な表情を持ち、幻影の世界の合唱団が眼前に現れたような生々しさすら帯びている。
今回のUltimate Editionのボーナストラックとしてはじめて収録された『シェエラザード』の「声」も必聴だ。前面に出てくるのはコーラス風の音色ではなく、リード・シンセ的なものだが、ポルタメントなど細かな表情付けの巧みさによって、人格をもったシンセサイザーが歌っているかのように聞こえるのだ。作品の題材を意識したオリエンタルなテイストも素晴らしく、可能であれば『シェエラザード』全曲を聴いてみたい。
一方、最新作の『イーハトーヴ交響曲』では、やはり実在しない歌手の声が重要な役割を果たす。今やその名を知らないものはいない初音ミクである。『展覧会の絵』で登場するコーラスやオーケストラは、多重録音で作り上げられた音盤上だけに存在する「架空」の存在であった。しかし『イーハトーヴ交響曲』では、電脳世界のアイドルである初音ミクが、「実在の」オーケストラや合唱団と「共演」してしまったのだ。今回発売されたblu-ray版の映像では、オーケストラと合唱団の背後に設置されたスクリーンに初音ミクの姿が投影され、彼女が歌い踊る様子を楽しむことができる。アンコールで演奏された『リボンの騎士』での、ミクがリボン付きの帽子をかぶって歌うという粋な演出も、ファン必見だ。
この手の試みでは、たいていは固定された映像と音声が先に作られ、クリック・トラックを利用して「生演奏が」その映像にタイミングを合わせる、という手法がよく使われる。しかしこの場合、生演奏特有のゆらぎを排して、機械的なビートに生演奏が合わせなくてはならず、演奏も生硬なものになりがちだ。生演奏と初音ミクの「リアルタイム」の共演にこだわった冨田は、クリプトンのスタッフと一年以上の歳月をかけて、これを可能にする演奏システムを開発した。舞台の片隅に陣取ったコンピュータのオペレーターが、指揮者のタクトに合わせてコントローラーをタップし、そのデータによって「映像や音声が」生演奏にタイミングを合わせるのだ(つまり映像と音声データはリアルタイムに生成される)。ちなみに、3人のオペレーターがステージの端で機材を操作し、それがスクリーン上の初音ミクの動きへと結びつけられる様子をみて、私は人形浄瑠璃を連想してしまった。最新技術を駆使しつつ、それが同時にアナログな味わいも醸し出す様子を楽しめるのも映像ならではであろう。
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