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特集

BOY GEORGE

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2014年03月26日 17:59

更新: 2014年03月26日 17:59

ソース: bounce 365号(2014年3月25日発行)

文/村上ひさし



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レディ・ガガの台頭で奇抜なファッションやチープなシンセ・サウンドもすっかり市民権を得た今日この頃。頻繁に引き合いに出され、語られるようになったのが、〈80年代〉というキーワードである。マドンナ、プリンス、ワム!、デュラン・デュランらが時代の顔だった80年代。もちろん、彼らと並んで華々しく活躍を繰り広げたボーイ・ジョージ率いるカルチャー・クラブのことも忘れちゃいけない。同じく〈ニュー・ロマンティックス〉から頭角を現したデュラン・デュランが正統派アイドルとして人気を誇ったのに対し、カルチャー・クラブはボーイ・ジョージというアンドロジナスなシンガーの個性や非日常的な存在感で支持を集めた。いまでも世代を超えて愛される“Karma Chameleon”は普遍的な魅力を持った楽曲だが、しかし、それを歌ったシンガーの半生は普遍とは程遠い波瀾万丈なものだった。



特異なキャラクターを武器に変えて

本名、ジョージ・アラン・オダウド。61年にロンドン東部はベクスリーで誕生する。現在52歳。アイルランド系ワーキング・クラスの大家族のもと、5人の兄妹と共に育った。幼い頃から浮きまくっていたジョージだが、本人は気にすることもなくスクスクと成長。しかし、学生生活に関しては苦々しい思い出しか残っていないようで、学業や運動にはまるで興味が持てず、将来的な展望もなかった彼にとって学校は教師との戦いの場でしかなかった。そして、服装やメイク、振る舞いがどんどん過激にエスカレートし、やがてハイスクールから追い出されることに。

退学を機にロンドンでスクワット生活(空きアパートを不法占拠)を始めたジョージは、その個性的なルックスやファッション・センスを買われてヴィサージのスティーヴ・ストレンジが経営/ドアマンを務めるクラブ、ブリッツでコート・チェック係の職を得る。70年代後期〜80年代初頭にかけてのブリッツといえば、ニューロマ・ムーヴメントのメッカ。スパンダー・バレエが、デッド・オア・アライヴが、ジョージの親友であり悪友でもあったマリリンらが常連客で、デペッシュ・モード、シャーデー、デヴィッド・ボウイらも訪れる社交の場であった。そんなナイトライフの遊び場からアーティストやバンドが生まれ、ユース・カルチャーが発祥したのだから、セレブ2世や3世やスポンサー企業で作られる現在のクラブ・カルチャーとは根本的に異なるものか。とにもかくにも、ジョージはその頃に付き合っていたカーク・ブランドン(シアター・オブ・ヘイト、スピア・オブ・デスティニー)の影響でシンガーになろうと思い立ち、自分が本当にやりたいのは音楽だと悟るに至った。そして、すぐさまセックス・ピストルズなどを手掛けた凄腕マネージャー、マルコム・マクラーレンにみずから売り込みを掛けている。マルコムの計らいでバウ・ワウ・ワウのメンバーとしてステージに立ったが、数回で仲違い。ならば自身のグループを作ろうとメンバーを集め、こうして81年に生まれたのがカルチャー・クラブだ。



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アイルランド系のジョージ(ヴォーカル)、ユダヤ系のジョン・モス(ドラムス)、ジャマイカ系黒人のマイキー・クレイグ(ベース)、イングランド系白人のロイ・ヘイ(ギター)という4人で構成。バンド名には〈多様なカルチャーやバックグラウンドを持ったメンバーの集合体〉という意味が込められている。ちなみにグループの実質的なリーダーは、ダムドやアダム&ジ・アンツでの活動経験も持つジョン。公にされていなかったが、彼とジョージは恋仲でもあり、「カルチャー・クラブの楽曲には2人の関係を歌ったものが多かった」と後にジョージは明かしている。

そして、当時ヒューマン・リーグやシンプル・マインズらUKの新進アクトの獲得に積極的だったヴァージンと82年に契約を交わす。最初のシングル2枚“White Boy”“I'm Afraid Of Me”こそチャート・アクションはイマイチだったものの、3枚目のシングル“Do You Really Want To Hurt Me”で見事ブレイク。まずUKチャートでNo.1を記録すると、あれよあれよと世界へ拡散し、ヨーロッパ各国で軒並み1位を獲得したのみならず、USチャートでも2位まで上昇する。デュラン・デュランやユーリズミックス、ポリス、ウルトラヴォックスをはじめとするUKのグループが〈第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン〉の波に乗って次々と全米上陸を果たしたが、そのなかでもやはりボーイ・ジョージの存在感は光っていた。女装のような出で立ちで〈僕を本当に傷付けたいの?〉と繰り返すシンガーの歌が、多くの人の胸に突き刺さったのだ。それは日本においても同様で、彼らの人気の凄まじさはいまでも語り草となっているほど。もしかしたら社会の枠組にはめられた多くの日本人が、ジョージのように自分らしく自由に生きられたら……と憧れたのかもしれない。余談だが、その後の低迷期にも、ジョージのもとには常に日本から励ましのファンレターが送り届けられていたそうだ。



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もちろんカルチャー・クラブが一世を風靡できたのは、そうしたジョージの突飛なキャラクターだけが要因ではない。誰もが驚いたのは、ヴォーカルの素晴らしさだった。ソウルフルで、ハートウォーミングで、慈愛の情をたっぷり湛え、人間的な温かさ、豊かさ、儚さ、包容力が滲み出るようなその歌声に。しかも、サウンド的にもUKのアーティストたちが先を争って採り入れようとしていたレゲエやダブを、完璧に自分たちの物としたのみならず、カリプソの陽気なリズムの導入も特長的だった。そして、“Do You Really Want To Hurt Me”を収録したファースト・アルバム『Kissing To Be Clever』(82年)が全世界で大ヒット。同作からミディアム・テンポの“Time(Clock Of The Heart)”もUKで3位、USで2位をマークする。

翌83年には2作目『Colour By Numbers』を発表。ソウルフルなヘレン・テリーの歌声をフィーチャーした“Church Of The Poison Mind”ではモータウン・ビートに挑戦し、その後にシングル・カットされた“Karma Chameleon”でさらなる支持を獲得する。ニューロマ云々を抜きに、良質なポップスとして幅広く受け入れられた後者は、英米で1位を獲得したのをはじめ、世界各国のチャートを制覇。ほかにも同アルバムからは、ジョージがカルチャー・クラブのなかで最愛の曲だというバラード“Victims”がUKで3位、“Miss Me Blind”がUSで5位のヒットとなる。



数々のスキャンダルを乗り越えた先に……

だが、この直後から、カルチャー・クラブはやや迷走を見せはじめる。翌84年に3作目『Waking Up With The House On Fire』をリリースするが、後にジョージは「過酷なツアーの合間を縫って、急いで作られたアルバムだった」とコメント。表向きは順調に見えていたが、バンド・エイドのチャリティー・シングル“Do They Know It's Christmas Time?”への参加を経て、86年に4作目『From Luxury To Heartache』を発表する頃には、薬物問題が暗い影を落としていた。



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その年、グループのキーボード奏者がドラッグの過剰摂取によってジョージの自宅で死亡。この事件を境にバンドは活動を停止する。ジョージはソロに転向してアルバム『Sold』をレコーディングし、ファースト・シングル“Everything I Own”がUKチャートで首位を獲得するなど出だしこそ良かったものの、やがてヘロイン中毒との戦いが表面化。薬物の不法所持や不可解な言動といったトラブルが頻繁に報じられるようになっていく。しかしその一方で、コンスタントにソロ・アルバムをリリースし、DJ活動に乗り出し、カルチャー・クラブの再結成ツアーにも参加するなど(代役シンガーでツアーが企画されたこともあったが……)、常に音楽活動から離れることはなかった。とはいえ、苦しい時期であったのは本人も認めるところで、周囲の人々に酷い態度で接していたと猛反省している。そんな低迷期にありながら、92年には映画「クライング・ゲーム」の主題歌“The Crying Game”で存在感を示したり、2000年代には自身の体験をベースにしたミュージカル「Taboo」でトニー賞にノミネートされたことも。同作には、本人役ではないがジョージも出演した。

そんな彼が本当の意味でクリーンになり、再起を果たすきっかけとなったのは、ネットで知り合った男性を監禁したとして、2009年に有罪判決を受けたことだろう。一時は別人かと思うほどぶくぶく太って不健康そうだったジョージが、刑期を終え、すっかり元気になって帰還したのだ。以降は食生活にも気を配り、精力的に音楽活動に勤しんでいる。そして、昨年10月に本国でソロ・アルバム『This Is What I Do』をリリースし(このたび日本盤化!)、現在はカルチャー・クラブの再々結成アルバムの制作に着手しているとか。「僕は今年で6年間クリーンだ」と話す彼のメイクの下に、ようやく笑顔が戻ってきた。



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