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掲載: 2007年11月30日 00:48

更新: 2007年11月30日 00:48

文/  intoxicate

センティ・トイ(Senti Toy)
『私の運命線』(How Many Stories Do You Read On My Face)
intx-1005 \2,600(tax in)
2006/2/22 on sale

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ポップスをイノセントに、センシュアルに成熟させるシンガー・ソング・ライター、デビュー。アニ・ディフランコ、ノラ・ジョーンズ、キャット・パワーを生んだ、ニューヨークからまたあらたな才能が生まれた。センティ・トイ、北インド、ナガランドに生まれ、ボンベイで音楽を学び、ニューヨークで活動を続ける。ニューヨーク・ダウンタウンが秘かにそのデビューを待ち続けた才能が遂にデビュー!ジャズ、トラディショナル・フォーク、そしてブルース・ルーツ、ポップスを垣根なくブレンドしたポップス・アルバム。

Senti Toy 『私の運命線』に寄せられたコメント

軽やかでアコースティックな響きにはRickie Lee Jonesのような明るさとJoniMitchellのような実験的アプローチが共存。すっきりと、かつ繰り返し聴ける気持ちの良いサウンドなのです。
(東海ウォーカー 音楽連載 「高野寛のおでかけPLAYLIST」07年19号より抜粋)

高野寛
http://www.haas.jp/
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ここ最近、我が家ではかかりまくってます。声も飾らなくていいし、サウンドもいろんな要素が混ざっている(アジアの匂いもする)し、何度聴いてもいい意味で疲れない一枚です。ぜひ彼女の世界を堪能してみてください!

bird
http://www.bird-watch.net/pc/index.html
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センティのアルバムを聴いて、声とアレンジのバランスが本当にすごいと思ったんです。
本当にどの曲も素敵!
畠山美由紀
http://www.tone.jp/hatakeyamamiyuki/index.shtml
http://www.rhythmzone.net/hatakeyama/index.html
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センチメンタル ナ オモチャ???
何故ニ泣キタクナルホド懐カシイノデスカ...
何故ニ見タコトモナイ光ヲ発スルノデスカ...

内田也哉子
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私の運命線 ライナーノート
TEXT:松山晋也

 インド人で首狩り族でヘンリー・スレッギルの妻で…と、それだけ聞かされただけでは、一体どんな音楽なのか皆目見当もつかない。センティ・トイのデビュー・アルバムのことを本作A&R高見氏から説明された時は、「…なるほど、面白そうだね…」ぐらいしか言えなかった。かろうじてうっすらと思い浮かべたのは、アリス・コルトレーンぐらいか。
 なんでも、ディック・コンダ(キップ・ハンラハンのエンジニア)とブランドン・ロスが彼女のことを気に入ってて、intoxicateに紹介したのだという。言うまでもなく、ロスはスレッギルの片腕として80年代からずっと活動を共にしてきたわけで、時々スレッギルのバンドにヴォーカルで参加してきた妻のセンティのユニークなキャラクターに彼は魅せられたらしい。
 しかし、まず聴かされた2曲入りのデモ・トラックは、僕をますます戸惑わせたのだった。なぜなら、まるでジョニ・ミッチェルのようだったから。アコースティック・ギターの弾き語りによる簡素でクセのないヴォーカルには、インドだの首狩り族だのヘンリー・スレッギルだのといったインフォメイションとは、何ひとつつながるものがない。
 といった混乱状態のまま、昨年5月にニューヨークで本人に会ったわけだが、話を聞いて、ようやく様々な謎が解けていった次第だ。
 まずは、センティ自身の話を元に、彼女のプロフィールを紹介しよう。


 センティ・トイは、前述どおりインド出身である。が、インドとはいっても、なんとナガランドの出身だ。ナガランドという地名は、ほとんどの日本人にとっては馴染みがないと思うが、ミャンマーと国境を接する深東北部の山岳地帯である。地図でもわかるが、そこは、隣接するマニプールやアッサムなど(俗にセヴン・シスターズと呼ばれる7州)と共に、文化的にはインドというよりも中国やミャンマーに近い。住んでいる人々は外見的にもアーリア系ではなくアジア系で、実際センティの顔つきも、ちょっと色黒の日本人といった趣きである。
 ナガランドと日本の接点といえば、「死の行軍」と呼ばれる第二次世界大戦時のインパール作戦(1944年7月)が有名だろう。ビルマ(ミャンマー)~ナガランドを経て隣のマニプール州の首都インパールを目指した日本軍の侵攻によって、日本軍、英国軍(兵士の大半はインド人)双方に膨大な数の死者が出た。ナガランドの首都コヒマ(センティのホーム・タウンでもある)は、その最大の攻防戦が繰り広げられた町として有名だ。しかし、この悲劇の戦闘は、戦後のインド独立のひとつの重要なきっかけにもなったわけで、実際ナガランドやマニプールには、日本に対して好意を示す人が、今でも少なくないという。
 ナガランドは、長年インド政府によって外国人の入域が厳しく制限されていた(インド人ですら入域するのに特別な許可が必要だった)ため、外部からの影響をあまり受けることなく、伝統文化や風習が残されてきたという。センティは、こう語る。
 「ナガランドには全部で16の部族が住み、私の部族はアオ(Ao)といいます。それぞれの部族が異なる言語を使い、テリトリーを分けて生活していますが、皆、元々は首狩り族です。私のひいおじいさんまでは首を狩っていたそうです。イギリスの植民地時代には、イギリス政府が首狩りを禁じましたが、彼はやってしまって逮捕され、獄死しました。ですが、おじいさんはナガランド人で最初に教職に就いた人でした。そして父は、エンジニアで、ナガランドの電化に貢献した人物として有名です。若い頃に日本の東芝で研修したため、帰国後、彼はミスター東芝と呼ばれ、自らも名字をトウシバと名乗っていました。しかし、発音しにくいという理由から、現在私が使っている名字トイを名乗るようになったのです」
 首狩り族の末裔にしてミスター・トウシバの娘。面白すぎる。ちなみにナガランドには、アオ族以外にアンガミ、セマ、ロタ、コニャク、タンクルなどいろんな部族があるが、センティのアオ族は、早くからキリスト教を受け入れ、西洋化が進んでいたらしい。
 センティは地元コヒマの高校卒業後、ボンベイ(現ムンバイ)の大学に進み、インド哲学を学んだ。そして卒業後は、TVやラジオのジングルやCM音楽を作るプロダクションに入った。彼女が人前で歌いだしたのは、その頃からである。
 「そのプロダクションでは、コンドームやらなんやらのCM音楽を作っていました。社内には、とても優秀なジャズ・ピアニストで、ボンベイのクィンシー・ジョーンズと呼ばれるプロデューサーがいたのですが、私は彼のバンドでちょっと歌っていました。でも、歌にのめり込むほどではありませんでした。ジャズを聴いたのも、ボンベイに出てきてからです。エラ・フィッジェラルドを初めて聴いた時は、本当に驚きました。私がそれまで聴いてきた音楽といえば、アバやジョン・デンヴァー、リンダ・ロンシュタットといったポップスやカントリーばかりだったから。そしてその頃、インドに公演に来たヘンリー・スレッギルとも知り合ったのです。フリー・ジャズを聴いたのは、もちろんそれが初めてです。ドラマティックでしかも厳格というのが、最初の印象でした」
 やがてスレッギルと恋仲になったセンティは、結婚し、10年間のボンベイ暮らしに区切りをつけて、夫と共にニューヨークへ渡ることになった。1994年のことである。
 ニューヨーク移住後のセンティは、時々スレッギルのグループ、ヴェリー・ヴェリー・サーカスで歌ったり、レコーディングに参加するようになった。彼女が参加したアルバムとしては、『Carry the day』(95年)がある。スレッギルのライヴ・ツアーに参加していた時は、サブ・メンバーということで「Very,Very Circus plus」と名乗っていたという。
 当時は相変わらず、センティ自身は歌うことにさほど関心はなかったそうだが、そのツアー・メンバーの一人であるキーボード/ギター・プレイヤーのトニー・セドラス(カサンドラ・ウィルソンの作品におけるプレイでも知られている)がセンティを気に入り、一緒に何かやろうと提案。また、前述どおり、同じくツアー・メンバーだったブランドン・ロスもセンティの歌に魅せられ、ギターをプレゼント。かように励まされたり誘われたりして、徐々にシンガーとしての活動を本気で考えるようになったセンティは、スレッギルがキップ・ハンラハンのアルバム『千夜一夜物語』に参加した時に知り合ったレコーディング・エンジニア、ディック・コンダスに相談し、試しに1曲、自分で作った曲をレコーディングしてみた。本アルバムにも収録されている「コヒマ」である。僕が最初に聴かされたデモ・トラックも、これだった。これを契機にトニー・セドラスが参画し、本格的にこのデビュー・アルバムの制作プロジェクトがスタートしたのだった。


 さて、以上のような経緯で歌い始め、作られたこのソロ・デビュー・アルバム。ブランドン・ロスにフェルナンド・ソーンダース、トニー・セドラス、カルヴィン・ジョーンズといったニューヨークの前衛ジャズ系ヴェテラン・ミュージシャンたちのバックアップはヘンリー・スレッギル夫人としては、まあ当然と言うべきか。そして、さすがにボンベイの音楽プロダクションで働いていただけのことはあると納得させられるのが、インド人パーカッショニスト、A・シヴァマニの参加だ。アーナンダン・シヴァマニは、ボリウッド最強の人気作曲家A・R・ラフマーンの盟友としても有名なプレイヤーで、ザキール・フセインやトリロク・グルトゥなどとも並び称せられる凄腕。ソロ・アルバムもある。おそらく、インド時代に仕事を通じて面識があっのだろう。
 また、コーラスなどで参加しているヌーミ・スレッギルというのは、ヘンリーとセンティの間に生まれた娘。そして、ヤーラ・トイは、おそらくセンティの妹だろう。現在ニューヨークには、このトイ姉妹を含めて3人のナガランド出身者が住んでいると彼女は言っていた。
 こうしたミュージシャンたちに支えられて完成した本作は、全10曲中、トニー・セドラス作の2曲を除く8曲をセンティ自身が作っているが、いずれの曲も、センティが鼻歌的に紡いだメロディをベースに、極めて簡素な肉付けが施されている。時にエスニックやラウンジ風なアプロウチもありつつの、全体にジャジー&フォーキーなアレンジだが、あくまでもセンティの楚々としたヴォーカルを前面に立てるというスタンスで一貫している。センティは特にすぐれた歌唱力を誇るわけではないが、声質や歌い回しがまるで小鳥のさえずりのように妙にキュートで(本人のキャラクターも、すこぷるキュートだ)、作品全体にインティメットなムードが醸し出されている。
 夫ヘンリー・スレッギルの音楽からの影響は、ほとんど窺えない気がするが、本人はこう語る。
 「いえ、ヘンリーからの影響もあると思います。たとえば、私は作曲する時は、なるべく直観的に作るよう心がけており、結果的にアシンメトリーのものが多くなるんです。最近ではギターで曲を作ることをやめて、メロディーを作った後にハーモナイズするためにギターを使う程度です。こういう、メロディーがセンターにあってそこから音楽が広がってゆくというのは、ヘンリーの手法なんです」
 また、④「The Language I Cry In」の冒頭、アカペラで歌われるのは、おそらくナガランドの伝統音楽(言語もおそらくナガランド語=ナガミーだろう)だと思われるが、センティ自身は、幼い頃にはあまり伝統音楽に接する機会がなかったという。
 「私の時代には既にナガランドの音楽を聴くことはまれで、イギリス植民地時代の名残りで教会音楽などをよく耳にしました。ナガランドの伝統を知るのは老人だけになってしまっているのです。ナガランドの音楽は声楽が中心です。太鼓の伴奏を伴う短い詩を歌ったもの、コール&レスポンスという形式が大半です。歌は、ずり上がったり下がったりする微分音程を伴うメロディーをハミングするというのが基本的なスタイルのようです」
 今回、ここで披露している伝統音楽は、スミソニアン博物館に収蔵されているほぼ唯一のナガランド音楽の音源に倣ったものらしい。また彼女は、ナガランドの伝統音楽への興味から、現在、ニューヨーク州立大学の民族音楽学科に通っているともいう。もしかしたら、次のアルバムでは、もっとたくさんのナガランド民謡やその応用形を聴けるかもしれない。
 いずれにしても、控えめな表現による点描画のようなこのデビュー・アルバムからは、アルバム・タイトルどおり、ユニークなプロフィールを持つ女性のいくつもの横顔が見えてくる気がする。

(2006年1月19日)