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カテゴリ : 佐々木 

掲載: 2008年04月08日 10:30

更新: 2008年04月08日 10:30

文/  intoxicate

ヴァレリー・アファナシエフ 特別寄稿:死と愉しみ(全訳)第5回
intoxicate誌2/20発行vol.72で特別寄稿いただいたものの、全文をイントキ・ブログにて毎週アップしていく予定です。内容は、2007年11月来日時に行われたレクチャーです。レクチャーで翻訳をされた田村恵子さんに多大なるご協力をいただきました。ありがとうございました。(協力:コンサートイマジン)


第五回

 さて、ここで、音楽の楽しく陽気な一面に目を転じてみましょう。三週間ほど前、私はウィーンのとある宮殿で催された結婚式に招かれました。食事の前にシャンペンで喉を潤していたのですが、その時演奏されていたのがシュトラウスの『こうもり』です。それから始まった舞踏会の皮切りは『美しき青きドナウ』でした。三拍子のワルツは人生の基礎を成しているように思えます。何か気紛れなメロディーに彩られた、心弾むリズムがワルツそのものなのですから。これが人生を表していないとしたら、何なのでしょうか? 私たち人間の三位一体的とも言える精神構造は、ワルツに最も巧みに表現されていると考えられます。シュトラウスがこの世に生を受けていなかったとしたら、私たちの人生は、どれほど無味乾燥だったことでしょう!そして、私はロシアの素敵なワルツにも思いを馳せます。子供の頃、あれらの楽曲を聴いて、どんなに心を癒されたことか!

 それでは、舞踏会でワルツのステップを踏むのと、ディスコで踊り明かすのとは、どれほどの違いがあるのでしょうか? 舞踏会では、私たちは音楽をBGMのように聞きながら、お喋りをし、何かの話題について議論を交わしたりします。ディスコではリズムが主導権を握り、私たちはそれに操られているかのようです。ところで、ワルツの中にも死を身近に感じさせるものがあります。例えばシベリウスの『悲しきワルツ』のような。音楽を聴くと、常に死を親しいものと感じるようになります。しかし、舞踏会で音楽を聴いている限りにおいては、恋愛がもう一度甦ること、新しい生活をはじめることなどを前向きに考えたくなります。さすがに、私たちが死後に復活する、というようなことまでには思いを馳せたりはしませんが。ワルツの形式には永遠が宿っているようです。ダンテの作品において、天国で踊りながらくるくる回っていた幸せな人々のことを想起すれば、納得が行くことでしょう。ディスコで踊っている人たちは、時空を超えた、果てることのないメロディーやハーモニーに絡め取られていて、未来への希望を持つことがかないません。キティはリョーヴィンと結婚して天国を再び見出しますが、その前に彼女は死ぬほどの絶望を味わいます。キティはこの苦悩を舞踏会の最中に体験します。しかし、舞踏会に不吉な雲は似合いません。どんな舞踏会も幸せな未来で一杯なのですから。キティにとって舞踏会とは、相反するものを調和させる役目を果たします。つまり、不幸と幸福を一体のものとしたのです。

 さて、このレクチャーの最後にシュトラウスの『こうもり』についてお話したいと思います。このオペレッタのお陰で、ひどい欝状態にあった私は、とても幸せな気持ちになれた経験があるのです。とは言え、私はそれほど陰気な性格ではなく、世界の終わりが近付きつつあると信じて疑わない神経症患者とはまるで違っています。それでも、いつか世界は終焉をむかえるのでしょうが。

 二年前、私はモスクワで新年を迎えようと思っていました。突然、まるで心臓発作のように、ノスタルジーの発作に見舞われてしまったのです。お正月の三日前、私は半日走り回ってモスクワ行きのエア・チケットを手に入れようとしていました。それほどに私の気分は滅入っていたのです。なかなかうまく行きませんでしたが、何とか大晦日当日、私はモスクワにいることができ、フランスに出かけて留守をしている友人宅に滞在していました。それでも沈んだ気分はそのままでした。友人の家に招かれ、ともに新年を祝いました。ところで、その日の午後、一人でテレビを見ていたら、偶然、フランスのニュースとウィンナ・ワルツに関する番組が流れていました。それは、『こうもり』についての番組でした。オペレッタにインスピレーションを得てローラン・プティが振り付けたバレエ公演の中継です。私は『こうもり』が子供の頃から大好きでした。しかし、作曲者のシュトラウスはこの作品を作ることに乗り気ではなかったと伝えられています。美しいオペラ歌手が彼の考えを変えさせたらしいのです。台本を読みながらシュトラウスはぶつぶつ言います。 <くだらない。まったくもって、妻をだまして浮気をする亭主の話とは。しかも妻が共犯ときた。その上刑務所行きだなんて!> ところで、ロシアに帰った私には何となく予感めいたものがありました。モスクワでオペレッタの上演を劇場で観ることができ、天にも昇るほどの幸福感に包まれたのです。これは、オペレッタの演出が素晴らしかったからなのか、はたまたバレエの振り付けが見事だったからなのでしょうか? 私にも実は、よくわからないのです。

 最近『こうもり』の曲を聴きなおしました。実に素晴らしい作品だと、改めて感じ入りました。そして、ある日、というか、ある夜というのでしょうか、午前4時ごろに目覚めてしまい、いつものようにコンピューターの電源をいれました。それから、部屋にあるテレビのスイッチもいれました。すると偶然にも、オペレッタの作曲を渋るヨハン・シュトラウスが主人公の映画が、画面に映っていたのです。映画のなかでシュトラウスは作曲することに承諾し、それから『こうもり』の素晴らしいメロディーが生み出されて行き、映画の中で音楽が流れて行きました。この音楽はまたしても、私を天国にいるかのような至福の気分で包み込みました。ダンテがこの美しいメロディーを聴くことができず、音楽に乗って楽しげに踊る人々の姿を見ることもかなわなかったことは、とても残念です。ワルツを聴いて、幸せな気分にならない人は稀でしょう。とは言え、他にもワルツはたくさん作曲されていますし、ウィンナ・ワルツだけがワルツではありません。私は、かなりの数のワルツコレクションを持っています。しかし、『こうもり』が特別に聴く人をいい気持ちにさせてくれるのは何故なのでしょうか? 

 オペレッタの台本はかなり荒唐無稽です。登場人物が仮面を付けているからです。最も美しいメロディーはファルケ博士が歌うものなのですが、彼は他の人々に一緒に歌うように誘いかけます。歌詞はこんな具合です。

 <さあ、みなさん、ご一緒に
  グラスを持って
  隣の人に向かって歌いましょう。
  兄よ、弟よ、そして妹よ・・・>

 モスクワでこのオペレッタを鑑賞した時には、ベートーヴェンのメロディーよりも親しみ易く、魅惑的に思えました。美しい旋律に乗せて、こんなに親愛の情がこもった歌詞を歌いかけられたら、一生忘れられない思い出になるでしょう。<兄よ、弟よ、妹よ・・・> 私はとても強く心を動かされたので、ストーリーを追うことができなかったほどです。音楽だけが心に残り、複雑な物語の展開にメリハリをつけます。音楽は人生の遥か上に上り、歌詞の言葉は途切れ途切れに聞こえ、現実に見る事はできませんが、天国の存在を暗示しているように思えます。この『こうもり』の歌のお陰で、私は何度か天国に昇ったような幸福感を覚えました。この作品には馬鹿馬鹿しいような場面もありますが、それも作品の音楽の永遠性の支えとなっています。言葉を変えて言うなら、音楽が理想的に永遠性を表現しているのです。これは死に直面した愉悦です。しかし『こうもり』の最後には見事なアンチ・カタルシスとも呼ぶべきものが用意されています。私はこの最後のしかけは作品の形式、その根本的な有限性によるものだと思います。『こうもり』を鑑賞して私たちは、純粋さから、日常生活に付きものの不純さに導かれます。作品の構造、有限性が、全編を通して流れているワルツに勝っているのです。最後の和音が鳴り響くや、登場人物たちの波乱万丈な物語の続きを想像することはできません。もはや、彼らは歌わないのですから、存在意義もありません。音楽の有限性ゆえに、毎日の平凡な生活は私たちにとって罠のようにその円環を閉じるのです。そこで私はフィリップ・ミュレーがニーチェについて述べている件を想起します。

 <最近、こんな宣伝文句を目にした。曰く「バカンスだけは楽しまなくてはダメですよ」こんな具合だ。惨めなバカンスもまた良し、人生は予期できないことが起こるのだからプログラム通りには行かない、つまりヘーゲルも述べたように、歴史というのは人間が数限りなく犯す失敗の連続から構成されている真実なのだ、と言っているように思われる。しかし、実際のところ、全然そうではない。つまらないバカンスを過ごすことなんて出来はしない。何故なら、今や世をあげて全てはバカンスの為に、と言っても良いくらいなのだし、そうでなければ、全てはバカンスの続きだと言えるのだから。人間が余暇を追い求める存在と化した今、自由な時間から抜け出すことは難しくなって来た。その時間が人間を罠のように絡め取ってしまったのだ。>

 死期が近付くと、さすがのバカンス信奉者も、余暇の充実の追及から関心を逸らせます。先ほどからお話しているシュトラウスの『こうもり』は、今日のバカンスほど包容力が豊かではありません。『こうもり』が与えてくれる愉しみに酔っている私たちも、3時間後には現実に引き戻されます。ホールの出口では、また死のような現実が待ち構えています。

ヴァレリー・アファナシエフ
1947年、モスクワ生まれ。モスクワ音楽院でヤーコブ・ザークとエミール・ギレリスに師事。1968年のバッハ国際音楽コンクール(ライプツィヒ)、1972年のエリザベート王妃国際コンクール(ブリュッセル)で優勝を飾っている。1973年にモスクワ音楽院を卒業、1974年にベルギーへ亡命した。以後、ヨーロッパ、アメリカ各地でリサイタルを行うほか、著名なオーケストラと共演を重ねてきた。日本へは、1983年にヴァイオリニストのギドン・クレーメルの共演者として初来日。1987年の《東京の夏音楽祭》のソロ・リサイタルで熱狂的な反応を呼び起こした。
レコーディングは、DENONを中心に20枚以上のアルバムをリリースしており、1992年には「ブラームス:後期ピアノ作品集」がレコード・アカデミー賞器楽部門を受賞。来日のたび、新録音リリースのたびに、独自の音楽性が論議を呼び、音楽界に大きな刺激をもたらしている。
ピアノ演奏にとどまらず、《失踪》、《バビロンの陥落》、《ルードヴィヒ二世》などの小説を発表する文学者の顔も持っている。フランス、ドイツ、ロシアでの出版に加えて、日本でも2001年にエッセイ集《音楽と文学の間》が出版され話題となった。また、ナボコフ、ボルヘス、ベケット、カフカ、ジョイスなどを愛読し、ヴィトゲンシュタイン、道教思想、インド哲学に傾倒していることでも知られる。
 現在はパリを拠点に活動。現代におけるカリスマ的ピアニスト、指揮者として注目を集め続けている。

田村恵子
上智大学大学院博士後期課程修了。
専門は20世紀フランス文学。
フランス語、フランス文学を大学で講じる傍ら、
音楽、映画を中心に翻訳、通訳で活躍。
アファナシエフ氏のレクチャー通訳を
2001年より担当。

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