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カテゴリ : 佐々木 

掲載: 2008年04月15日 10:30

更新: 2008年04月15日 10:30

文/  intoxicate

ヴァレリー・アファナシエフ 特別寄稿:死と愉しみ(全訳)第6回(最終回)
intoxicate誌2/20発行vol.72で特別寄稿いただいたものの、全文をイントキ・ブログにて毎週アップしていく予定です。内容は、2007年11月来日時に行われたレクチャーです。レクチャーで翻訳をされた田村恵子さんに多大なるご協力をいただきました。ありがとうございました。(協力:コンサートイマジン)


第六回(最終回)

 音楽によって私たちは、幸福と不幸という人間存在の両極を味わうことができます。音楽は私たちを代わる代わる天国と地獄へと連れて行きます。結果的に勝利を収めるのは、残念なことに地獄なのですが。マーラーの第八番交響曲を想い起こしてみましょう。音楽的地獄を超克して天空的ハーモニーを創り出そうとした天晴れな試みです。アドリアン・レーヴェルキューンがファウスト博士の伝説からインスピレーションを得て書き上げた最後の傑作を聞いた人は誰もいませんでした。マーラーの八番はゲーテの『ファウスト』の最終章を音楽的に表現したことは知られています。このマーラーの作品の雰囲気はレーヴェルキューンの『ファウスト』とは全く異なります。地獄の気配など微塵も感じられません。マーラーは天国を表現する音楽を創り出すためにゲーテの堂々たる力を借りていますが、ゲーテは後になって魔王の記憶を拭い去れず、かなり苦労しています。これらの天国はれっきとした本物であり、何の欠落もないのになぜ、作り物のように見えるのでしょうか? それはマルグリットが子供を殺害してしまったからでしょうか?  それともマーラーが引き続き第九番交響曲を作曲したからでしょうか? 或いは、甘い囁きよりも、苦しげなうめき声の方が真実味に溢れているからでしょうか? 

 私は、シューベルトについてのエッセーの中で、最後の作品が、それまで作曲した全ての作品に如何に影響を与えているかについて述べています。マーラーについても同様のことが言えますし、他のどんな作曲家についても同じなのです。リョーヴィンの幸せを想うとき、アンナ・カレーニナの悲惨な死については忘れられがちです。でもマーラーの第九番交響曲、とりわけ第一楽章は、あまりに美しく、一度聴いただけで惹きつけられてしまいます。そして彼の作曲した第六番交響曲についても同様です。例えば第八番交響曲、とりわけその中の幸せの讃歌をコンサート・ホールで耳にするや、聴き手の心はそのメロディーで一杯になります。音楽は死へと歩みを進めます。そして音楽における死は、作曲家たちが、終生彼らにつきまとって離れないタナトスから、何とか逃れようとして打ち建てる天国の数々の存在を蝕みます。チャイコフスキーはこのように死へと導かれることをfatum(宿命)と呼びました。マーラーは、意外と言葉に無頓着だったので、彼に相応しいのはもう少し軽い感じの destin
(運命、宿命)という言葉でしょうか。マーラーの一生はファウスト博士の頭の上を滑翔していた音楽に文字通り捧げられ、彼は第九番交響曲の第一楽章という追伸を博士のために書き加えました。

 マーラーの第八交響曲と『こうもり』を隔てるものは何でしょうか?  幸福感でしょうか? つまり天国の存在を感じられること。『こうもり』は決して人口楽園ではありません。オルロフスキー公爵や他の登場人物の台詞がどんなものであっても、それに変わりはありません。オペレッタに酔いしれる私に観えるのは、ひらひらと飛ぶこうもりを囲んで舞い踊る仮面のみです。そして、はるか高みには音楽が美しい旋律を奏で、歌詞は世知辛い現世を唄っていますが、それには頓着していないかのようです。ストーリーを超えるかのように舞踏会が開かれ、刑務所は作り物の舞台装置ですが、私の心は宮殿でダンスをすることで浮き浮きしています。ここでキャスペイダーの言に注目してみましょう (『音楽について 8』) <ヴァロが述懐しているように、音は私たちの役に立つものだ。音は、興奮状態にある魂を鎮め、さらには動物たちの心をも落ち着かせる。とりわけ、蛇、鳥、そしてイルカなど。そして美しい調和で聴覚を楽しませる> この一節はニコラ・ドルムによる冥土の音楽的解釈に響き合います。 <地獄で嘆く者の耳に聞こえる音ほどおぞましいものはない。それは一種の不協和音で、それを聞くと何とも悲しい気分になる。そして最も美しい音とは、天国で鳴り響く音だ。その音は未来永劫にまで続くかと思われる。それは何人の心をも落ち着かせるようだ> 確かにマーラーの8番は有用です。しかし、ニコラ・ドルムの言葉を借りるなら、おぞましい音が鳴り響く他の交響曲のせいで、効力を減じていると言えます。その点『こうもり』が人々の心に良い影響を与えることについては太鼓判を押せます。耳障りな音が全く含まれていないからです。このことは他のシュトラウスの作品についても言えることです。そして、シュトラウスのオペレッタの歌詞は良く訳が分からないものも多いのですが、それも幸いして、聴く者は幸福感に浸ることができます。ところが、マーラーの8番に使用されている歌詞はとても繊細なもので、私たちにうめき声や永遠に続く嘆き声を想起させます。教会での説教は天国について多く語るものの、地獄についての言及もそちこちに鏤められています。

 ジャック・ラカンは『無からの創造について』と題されたセミナーにおいて、陶工の手の元でうめき声を上げて苦しんでいる壷について語っています。この壷は空(くう)の周りに成り立っています。 <この壷が満たされているとしたら、それは先ず、壷が空っぽだからである> 神は世界を空(くう)から創られ、少しずつ満たして行かれるのです。壷のように、空っぽの世界は神という名の陶工の手の元でうめき声を上げているのです。説教師が如何にも好みそうなイメージではあります。完成された壷になる前にうめき声を上げているものは壷になるとは限らないのですが、何故これほど苦しまなくてはならないのか問いかけています。それでは、音楽の創造にこのイメージを当てはめてみましょう。空虚さが創造者の手元でうめき声をあげています。これこそ、交響曲、ソナタ、四重奏曲の誕生の瞬間ではありませんか。小説家はテーマを求めて、アマゾンのジャングルを探検する危険を犯し、ローマの都を焼き払い、怪しげな輩と関係を結び、インスピレーションを得ようとします。作曲家も全く同様なのです。空っぽの作品を前に、時には乱暴に振る舞い、また、ある時は愛でるように優しい仕草で触れるのです。

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ヴァレリー・アファナシエフ
1947年、モスクワ生まれ。モスクワ音楽院でヤーコブ・ザークとエミール・ギレリスに師事。1968年のバッハ国際音楽コンクール(ライプツィヒ)、1972年のエリザベート王妃国際コンクール(ブリュッセル)で優勝を飾っている。1973年にモスクワ音楽院を卒業、1974年にベルギーへ亡命した。以後、ヨーロッパ、アメリカ各地でリサイタルを行うほか、著名なオーケストラと共演を重ねてきた。日本へは、1983年にヴァイオリニストのギドン・クレーメルの共演者として初来日。1987年の《東京の夏音楽祭》のソロ・リサイタルで熱狂的な反応を呼び起こした。
レコーディングは、DENONを中心に20枚以上のアルバムをリリースしており、1992年には「ブラームス:後期ピアノ作品集」がレコード・アカデミー賞器楽部門を受賞。来日のたび、新録音リリースのたびに、独自の音楽性が論議を呼び、音楽界に大きな刺激をもたらしている。
ピアノ演奏にとどまらず、《失踪》、《バビロンの陥落》、《ルードヴィヒ二世》などの小説を発表する文学者の顔も持っている。フランス、ドイツ、ロシアでの出版に加えて、日本でも2001年にエッセイ集《音楽と文学の間》が出版され話題となった。また、ナボコフ、ボルヘス、ベケット、カフカ、ジョイスなどを愛読し、ヴィトゲンシュタイン、道教思想、インド哲学に傾倒していることでも知られる。
 現在はパリを拠点に活動。現代におけるカリスマ的ピアニスト、指揮者として注目を集め続けている。

田村恵子
上智大学大学院博士後期課程修了。
専門は20世紀フランス文学。
フランス語、フランス文学を大学で講じる傍ら、
音楽、映画を中心に翻訳、通訳で活躍。
アファナシエフ氏のレクチャー通訳を
2001年より担当。