フォーマット |
UHQCD |
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構成数 |
1 |
国内/輸入 |
輸入 |
パッケージ仕様 |
- |
発売日 |
2023年05月17日 |
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規格品番 |
EPITA041 |
レーベル |
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SKU |
4909346312210 |
ウィーン・フィルを指揮した巨匠の「ブラ1」。
エピタグラフから望みうる最高音質CD登場!
1947年8月、戦犯の疑いが晴れ、戦後初めてザルツブルク音楽祭に復帰したフルトヴェングラー。5月のベルリン・フィルとの定期"復帰"演奏会では「田園」「運命」の歴史的名演を披露していますが、8月13日にウィーン・フィルを指揮して締めの曲に選んだのは十八番中の十八番、ブラームスの第1交響曲でした。巨匠はテンション最高潮で気合十分、怒涛のフィナーレに向け、劇的・壮烈・白熱した演奏を展開。ウィーン・フィルは緊張感みなぎるアンサンブルを示し、弦・管楽器の名手たちの魅力が随所に。第2楽章では弦楽器がみずみずしく歌い、ボスコフスキーのヴァイオリン独奏も美しい限りです。この歴史的演奏会の音源、放送原盤の所在が不明で、従来は不十分な音質の音盤しかありませんでしたが、ついにエピタグラフが最高に良好な音質のCDを発売!
カップリングの余白には、巨匠のディスコグラフィーのなかで5月のベルリン、8月のザルツブルクの間に記録されている6月のハンブルクから「レオノーレ」序曲の2番を収録。嵐が吹きすさぶような演奏として有名ですが、今回の音源はノイズこそ若干残っているものの中低域に厚みがあり、迫力も申し分ありません。
さらにボーナス・トラックとしてこの曲のリハーサル風景を収録。CDは仏フルトヴェングラー協会、ディスク・ルフランでしか出たことがない、現在入手不可能なお宝音源です!放送目的で録音された4分弱の短いもので、コーダに入る部分、舞台裏のトランペットから始まっております。終結に向かってフルトヴェングラーは猛烈なアッチェレランドをかけ、さすがのベルリン・フィルも指揮についていけず、アンサンブルが一部破綻していますが、おかまいなしに指揮棒を止めず突き進む有り様はあの「バイロイトの第九」(1951年7月29日)リハーサル時のフィナーレ・エンディングの混乱・興奮ぶりを思い起こさせます。
丁寧かつ最新技術によるリマスタリング、しかも"高音質CDの決定版"UHQCDにして発売!ブックレット解説は『カラヤンとフルトヴェングラー』(幻冬舎新書)等でおなじみの中川右介氏「フルトヴェングラーは如何にして復活したのか(仮題)」。
キングインターナショナル
構成数 | 1枚
(1)ブラームス:交響曲第1番ハ短調 作品68
(2)ベートーヴェン:≪レオノーレ≫序曲第2番ハ長調 作品72(72a)
<ボーナス・トラック>
(3)ベートーヴェン:≪レオノーレ≫序曲第2番のリハーサル風景
【演奏】
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1)
ハンブルク国立フィルハーモニー管弦楽団(2)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(3)
【録音】
1947年8月13日 祝祭劇場、ザルツブルク(ライヴ)(1)
1947年6月9日 ムジークハレ、ハンブルク(ライヴ)(2)
1950年6月11日 ブレーメン(リハーサル)(3)
Produced by EPITAGRAPH
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1.[UHQCD]
この指揮者にとって大戦後の幸せな時期の爽やかな晩夏のザルツブルクでのLive録音。
両端楽章はこの指揮者の特徴や解釈が確認でき心身が充実している演奏。一方、中間楽章はブラームスの室内楽的なオーケストレーションと相まってリラックスした優しさに包まれた牧歌的な感じがする。この年の11月にHMVセッション録音された同曲の端正な演奏とは比較にならない演奏内容かと思います。
音は、2台以上の録音装置でシェラック盤による録音と思われる再生ノイズ、それをテープ等へ編集時の接続痕(特にTrack4の8分28秒~一時、音飛びのような欠落がハッキリクッキリ)が確認でき、最後は余韻も無くいきなりプッツンされている。残念ながら放送局に保管してあったオリジナルテープ等が失われているらしく、いまは私的にコピーされた音源のみしかないため時代相応の音以下と感じます(特に第4楽章は酷い)。だがブラームスの音楽を久々に楽しめました。
なお、独ハンブルクでの荒れ狂ったレオノーレ序曲第2番も秀演。同曲のベルリン・フィルとのリハーサルは内容も音も⤵。
20世紀のクラシック、特に戦前においては個性豊かででなおかつ現在の演奏では聞けないような素晴らしい実力を持った指揮者が多かった。その個性豊かな巨匠たちの中でトスカニーニとフルトヴェングラーが特筆される名前だというのは妥当だろう。しかしながらその後の演奏という行為に及ぼした影響についてより大きな影響を及ぼしたのはトスカニーニであろう。なぜか。トスカニーニのほうが数値化しやすいから。もしくは伝えやすいから。フルトヴェングラーは結局彼の個性、人間にその演奏が多くの依存性を持つ。あの音、強烈にあこがれるあの音をどう説明すればいい?だからこそそんな人間にとってはものすごく切実だし、迫ってくる。そしてそういう指揮者にベルリンフィルやウイーンフィル等の楽団員は強く引き付けられたのだろう。アンサンブルの精度等は副次的なものにすぎない。
最近のこのようなサイトでは演奏について上記のような見方を否定する論が見受けられる。それも仕方がないことなのだろう。人それぞれなのだから。ただわたしは上記のように演奏を受け取れることがうれしい。
録音はあまりよくないかもしれない。フルトヴェングラーの音はもっと重心が低かっただろう。ただ聞く分には何の支障もない。
2楽章のVnソロの繊細な表情には打たれました。また4楽章提示部の推進力にもグイグイ引っ張られました。それにしても音悪すぎ😞