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特集

史上最強のトライアングル

80年代に青春を過ごしてきたものにとって、ポリスはものすごく心に残るバンドである。彼らが時代の空気感を反映していたバンドのひとつであることが間違いない証拠だ。「ミュージック・ライフ」「ロックショウ」「音楽専科」などの洋楽雑誌、〈全米トップ40〉といった類のラジオ番組、「TOKIOロックTV」「(ソニー)ミュージックTV」、そして「ベストヒットUSA」などのTV番組。ちょうど日本で〈洋楽〉という言葉が熱かった時代、洋楽文化がいちばん開花した時代、そんな時代のエース格であったバンド、ポリス。70年代の終わりからMTVが登場、ポップ・ミュージックの流れが変わり始めた時期、見事その流れにも乗り、さらに勢いをつけた彼ら。スティング、アンディー・サマーズ、スチュワート・コープランドという、テクニックをバッチリ備えた3人が奏でる音楽は個性豊かで、スリー・ピース・アンサンブルのひとつの理想型に思える。バンドとしての最少人数で作り上げていったその独創的なサウンドは、メンバーのバックボーンや時代の空気など、あらゆるものが絡み合って作り上げられたものであり、それは、彼らが現れたときに隆盛を誇っていたパンク~ニューウェイヴ・シーンにはもちろん、どんなジャンルの枠にもあてはめることができないものだった。では、そんなポリスの歴史を振り返っていこうじゃないか。

デビュー、そして運命的な出会い

セックス・ピストルズが英国で話題になっていた76年の暮れ。アメリカ生まれ、当時24歳のスチュワート・コープランドと、25歳のスティングことゴードン・マシュー・サムナー、そしてスチュワートの連れてきたフランス人ギタリスト、アンリ・パドヴァーニの3人で、ポリスは結成された。そして、スチュワートの兄、マイルス(後にレーベル、IRSを設立)が立ち上げたレーベル、イリーガルから77年5月にシングル“Fall Out”でデビューを果たすが、ヒットとはおよそ無縁のセールスにしか至らなかった。そんなとき、スチュワートとスティングが元ゴングのマイク・ハウレットの誘いで、彼のプロジェクト、ストンチウム90に参加。そこでズート・マネーズ・ビッグ・ロール・バンドやエリック・バードン&アニマルズをはじめ、多くのキャリアをもつギタリスト、アンディー・サマーズに出会う。アンディーと意気投合した2人はは、スリー・コードしか弾けなかったアンリを-付き合いの長かったスチュワートは相当悩んだらしいが、バンドの成長のために涙を呑んで-解雇。ここからポリスの新たな歴史が始まる。

パンク・ミーツ・レゲエ

そして彼らはめでたくA&Mと契約し、78年4月にシングル"Roxanne"で再スタートを切る。パンク・サウンドとレゲエ・ビートを混ぜた独創的かつ新鮮なサウンドについての評価は高かったものの、売春婦を想起させる歌詞に問題があるとされて(当時のポリスは、パンク・バンドとして捉えられていたらしく、そんな偏見も加味されて、ことが大袈裟になっていたようだ)ラジオではほとんどオンエアされず、ヒットするまでには至らなかった。しかし、美しく染め上げられた3人のブロンド・ヘアが興味の的となり、バンド自体の認知度は高まっていた(その程度のことがウリになっていた時代なのかと思うと心が和む)。78年11月、ファースト・アルバム『Outlandos D'Amour』をリリース。シングル・カットされた"Can't Stand Losing You" "So Lonely"など、お得意のパンク・ミーツ・レゲエ・ナンバーから、曲名だけでもなにごと!?と思ってしまう"Masoko Tanga"のような実験的ナンバーなど、懐の深さを窺わせた本作。爆発的ヒットこそなかったものの、着実にセールスを伸ばし、ポリスの音楽性が世の中に浸透し始めていることを感じさせた。

人気の波はアメリカ、そして日本まで

79年に入り、スティングはモッド映画の名作「さらば青春の光」で俳優デビュー。そしてポリスは、カッコ良すぎるシングル“Message In A Bottle”、ダビーな“Walking On The Moon”を含むセカンド・アルバム『Reggatta De Blanc』をリリース。同作品はついに全英チャートで1位を記録し、その人気はイギリスはもちろん、アメリカにも飛び火することになった。

80年1月には初来日も実現、10月にはサード・アルバム『Zenyatta Mondatta』を発表する。シングル“Don't Stand So Close To Me”“De Do Do Do, De Da Da Da”も大ヒット。このころになると日本での人気もうなぎ昇り。湯川れい子先生の訳詞による日本語版“De Do Do Do, De Da Da Da”もリリースされた(♪ことばーだと♪うそにーなる♪……たどたどしいスティングの日本語がハートに突き刺さったぜ。そういえば『Zenyatta Mondatta』の帯が、銀色でやたらブッとかったのを思い出した)。

81年1月には2度目の来日(このとき「夜のヒットスタジオ」に出演した)。このころになるとポリスは、グラミー賞のベスト・ロック・グループを受賞したり、マディソン・スクエア・ガーデンでのコンサートをソールド・アウトにしてしまうほどの人気ぶりだった。10月には、名曲“Every Little Thing She Does Is Magic”を含む通算4枚目のアルバム『Ghost In The Machine』を発表。この作品から、ジェネシスなどを手掛けていたヒュー・パジャムをプロデュースに迎えたこともあり、サウンド的にも変化が見られる。急速に進化の道を歩み始めた〈テクノロジー〉との接近を、新たなプロデューサーを迎えたことによって、うまく試みることに成功したと言える作品だ。

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2001年11月22日 18:00

更新: 2003年03月07日 18:39

ソース: 『bounce』 226号(2001/10/25)

文/土屋 恵介

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