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CAN



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ロックの歴史を振り返ったとき、60年代から70年代にかけてドイツで発生した〈クラウト・ロック〉はあまりにも浮いている。USやUKのロック・シーンから切り離されたそのサウンドは、まさに突然変異。なかでも特にその気質を代表するバンドがカンであり、彼らのサウンドを簡単に説明するのは難しいが、カンのバックグラウンドを鑑みてみれば、クラウト・ロックの特異さが見えてくる。

ロックのようなもの

まず、カンは成り立ちからしてロック・バンドとしては異質だった。その起点はロック好きの不良仲間の集まりでもなければ、ロック・マニアの同好会でもない。カンを結成するまでのオリジナル・メンバーの経歴を簡単に紹介すると、イルミン・シュミット(キーボード他)はさまざまな音楽学校を渡り歩いてクラシックの専門教育を受け、指揮者としてキャリアをスタートさせていた。ホルガー・シューカイ(ベース他)も音楽学校で専門教育を受けるなかでイルミンに出会い、シューカイは音楽教師の道を選んだ。シューカイの赴任したスイスの高校の生徒だったのがミヒャエル・カローリ(ギター)で、当時はロックよりジャズやソウル・ミュージックを聴いており、シューカイ先生にそういったレコードを聴かせたりもした。そして、ヤキ・リーベツァイト(ドラムス)はヨーロッパのクラブを渡り歩きながらセッションを繰り広げていたジャズ・ドラマー……というわけで、(既存の)ロックをルーツに持っているメンバーは一人もいなかったのだ。しかも、カローリ以外の3人は37〜38年生まれで、カンが結成された68年には30歳前後という、ロック・バンドを始めるには高齢な〈良い大人〉だった。

もっとも、彼らはストレートにロックをめざしていたわけではない。60年代後半、彼らが親しんでいたクラシックやジャズの分野ではロック・シーン同様に大きな変革が起こっていて、クラシックでは現代音楽、ジャズではフリージャズが注目を集めていた。イルミンはカンを結成する前に渡米してジョン・ケージやスティーヴ・ライヒ、テリー・ライリーといった新進気鋭の現代音楽家たちと交流し、ドイツに戻ってきてからはドイツが誇る現代音楽の巨匠、カールハインツ・シュトックハウゼンに師事。そこでシューカイと出会うことになる。一方で、ヤキはフリージャズ・シーンの真っ只中にいた。そうやって、それぞれが新しい音楽の到来を敏感に感じ取るなかで、クラシックでもジャズでもない何か──あるいは、どんな音楽の要素でも放り込むことができる大きな缶(カン)として、彼らは〈ロックのようなもの〉に近付いていった。つまり、カンはロックに対して常に醒めた距離感を持ち続けたバンドであり、同じヨーロッパのロック先進国・UKのロック・バンドの多くが〈ロックンロールの聖地〉としてUSに抱いていたような、ブルースやカントリーをはじめとしたルーツ・ミュージックへの憧れは一切持ち合わせていなかったのだ。



フェイクこそリアル

カンは、ルーツを崇拝するよりも、常に新しい音楽を求め続けた。かつて、イルミンに取材をした時に訊いたところによると、彼が渡米して最先端の現代音楽に触れる一方で大いに興味を惹かれたのが、ジェイムズ・ブラウンをはじめとするファンクやソウル・ミュージックだったらしい。イルミンによると「当時のクラシックの世界ではリズムを軽視していて、シュトックハウゼンに至っては反復するリズムを毛嫌いしていた」。しかし、NYでナマの黒人音楽に触れたイルミンは「新しい音楽でいちばん重要な要素はリズムだと確信した」。そして、イルミンはリズムの起源を探ってアフリカ音楽を発見し、トライバルな反復ビートに興味を持つようになる。そうしたアフリカへの興味がもっとも色濃く反映されているのがファースト・アルバム『Monster Movie』だろう。なかでも20分近く反復のリズムを繰り返す“You Doo Right”の呪術的ともいえるグルーヴは圧巻で、本作以降、ファンクやアフリカ音楽から採り入れた反復ビートはカンの大きな特徴となっていく。しかし、だからといってカンの音楽がソウルフルかというと、その逆だ。形式(ビート)を採り入れても、彼らは重要なソウル(情感)は必要としていなかった。そして、それはヴォーカリストに端的に反映されている。



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カンの初代ヴォーカル、マルコム・ムーニーはベトナム戦争の徴兵を拒否してドイツに逃れてきた黒人彫刻家だった。たまたまイルミンの家に遊びにきていたマルコムがイルミンの演奏につられて突然歌い出し、その歌声に惹かれて採用を決めたらしい。カンが必要としていたのはメッセージを伝える表現豊かな、歌心があるヴォーカリストではなく、〈楽器のように機能する〉ヴォーカリストだった。実際、マルコムのリズミックなヴォーカル・スタイルは反復ビートを押し出した初期のサウンドにぴったりとハマっていて、ヤキのドラムとの相性も良かった。そして、マルコムが脱退すると、イルミンは路上で演奏していた正体不明の日本人、ダモ鈴木に声をかけた。ダモ鈴木はマルコムとは違ったタイプのヴォーカル・スタイルで、日本の歌謡曲や民謡を思わせる節回しが特徴。彼のメロディアスなヴォーカルはミヒャエルのギターとのコンビネーションでカンのサウンドに独特の浮遊感を与えた。ダモが脱退した後は曲によってメンバーがヴォーカルを担当することになるが、そこでも求められたのは歌の上手さではなく、いかにバンド・サウンドと馴染むかだった。そんなふうに彼らは、ヴォーカルの情感や起伏に富んだアレンジでドラマティックな歌の世界を生み出す欧米のロックやポップ・ミュージックにアンチな姿勢を打ち出す一方で、さまざまな新しい試みをサウンドに投入していった。

そうした試みのひとつが、現代音楽を通じて学んだ電子音楽の技術やテープ操作といったスタジオワークにおける実験だ。イルミンはアナログ・シンセを弾き、工学系の知識を持っていたシューカイはテープ・コラージュなど音響工作を探求。やがて、その手法はダブとの出会いで深化しながら、シューカイのソロ・アルバムへと受け継がれていく。また〈ニセ民族音楽シリーズ(Ethnological Forgery Series)〉というアプローチも実に彼ららしい。これはさまざまな国の音楽を彼らなりに解釈した音楽で、研究の結果生まれたものではなく、あくまで彼らがイメージする〈民族音楽のようなもの〉。いうなれば、〈贋作〉ならぬ〈カン作〉の民族音楽で、そのコンセプトに沿って作られた曲にはシリーズ・ナンバーが振り当てられていた。〈ロックのようなもの〉を演奏していた彼らにとっては、フェイクこそリアルだったのだ。そして、なんといっても彼らの真骨頂といえるのが即興セッションだろう。



ロックを挑発し続けて

バンドを結成したカンは、金持ちの友人から無料で城を借りると、そこをスタジオに模様替えして〈インナー・スペース・スタジオ〉と呼んだ。デビュー前にして自前のスタジオを手に入れた彼らは好きなだけ即興セッションに明け暮れ、そのなかから気に入ったテイクを発展させたり、加工したりして独自のスタイルを生み出していくことになる。イルミンいわく「全然違うバックグラウンドを持ったメンバーが集まって、事前に何をやるかを決めず、何が起こるかわからない状況のなかで音楽を作っていったことで結果的に他のグループとはまるで違った音楽が生まれた。それがカンのおもしろさだったと思う」。しかも、驚くほど繊細で滑らかな音響を聴かせる『Future Days』までは2トラック録音というローファイなレコーディングであり、それをまったく感じさせない見事なミキシング(録音技術)もカンのスゴいところ。野蛮な実験精神とアマチュアリズムが高度な知識/技術に支えられている不思議なバランス関係がそのサウンドを際立たせていた。例えばアナログ2枚組で発表された初期の代表作『Tago Mago』では、1枚目が音響的に緻密にデザインされたスタジオ・アルバム、2枚目がアルバムの制作過程をドキュメントした即興演奏が中心になっていて、カンのスタイルがわかりやすく打ち出されている。また、昨年『Tago Mago』のリリース40周年を記念した〈アニヴァーサリー・エディション〉がリリースされたが、そこに新たに収録された72年のライヴ音源や、68年から77年にかけての録音となる未発表セッションを集めた『The Lost Tapes』を聴くと、ライヴやセッションこそ彼らの重要な創造力の源だということがよくわかるはずだ。バンドにとってセッションは最大の実験場であり、ライヴは曲の再現ではなく再創造だった。

アウトサイダーの眼差しでロックを見つめ、電子音楽や民族音楽など異質な要素を採り入れて実験を繰り返す。そうしたカンの非ロック的なアプローチが、既存のロックを否定したポスト・パンク/ニューウェイヴや、音響という概念でロックを捉えたポスト・ロックといったムーヴメントに影響を与えるのは当然のこと。突然変異が進化を促す、なんて学説があるが、カンはいまもロックを挑発し続けているのだ。



▼カンの71年作『Tago Mago』の40周年記念盤『Tago Mago: 40th Anniversary Edition』(United Artists/Spoon/Mute/HOSTESS)

 

▼カンの未発表音源を収めた3枚組ボックス・セット『The Lost Tapes』(Mute/HOSTESS)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2012年09月12日 17:59

更新: 2012年09月12日 17:59

ソース: bounce 347号(2012年8月25日発行)

文/村尾泰郎

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