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特集

AEROSMITH

 

 

すでにメンバー全員が還暦を超え、来年1月にはファースト・アルバム『Aerosmith』の発表から丸40年を迎えるエアロスミス。いまや音楽ファンの多くは彼らをあらかじめ世界最大のロック・バンドのひとつとして認識しているはずだし、“I Don't Want To Miss A Thing”を彼らの代表曲として捉えている人たちには、このバンドの歴史に文字通りの〈どん底の時代〉が存在したことなど信じ難くもあるに違いない。

バンドの誕生は70年のこと。その夏、すでに活動を共にしていたジョー・ペリーとトム・ハミルトンが、自分たちのライヴにスティーヴン・タイラーを誘ったことが発端となっている。当時からプロとしての活動歴も持ち、地元のニューハンプシャーで名の知れていたスティーヴンは、そもそもはドラマー兼ヴォーカリストだった。が、彼らのライヴを観て〈下手くそなりのヴァイブ〉を感じ、2人との合流を機にフロントマンに専念することを決意。彼自身の人脈からジョーイ・クレイマーを、さらにそのジョーイの交遊関係から翌年にはブラッド・ウィットフォードを迎え、その時点で現在と同じ顔ぶれが出揃っている。

そうした起点と現在だけを見れば、まるで不動のラインナップのまま継続してきたバンドであるかのように錯覚してしまう。が、実のところ、5人のメンバーたちが現在も強固に繋がり続けているのは、これまで幾度もその関係性が崩壊と修復を繰り返してきたからに他ならない。骨折を経た骨は結果的にむしろ丈夫になるという話があるが、現在もエアロが成立しているのは、さまざまな紆余曲折のなかでメンバー各々がお互いの必要性について痛いほど学んできたからである。

 

 

成功、ドラッグ、喧嘩、そして崩壊……

デビュー当初こそ幸運な成功劇には恵まれなかったが、『Aerosmith』『Get Your Wings』という最初の2作に伴う地道なライヴ活動で地盤を固めながら制作された3作目『Toys In The Attic』が75年春にリリースされると、エアロスミスの名前は全米中に知れ渡ることとなった。2作目で初めて組んだプロデューサー、ジャック・ダグラスとの相互理解も深まり、ライヴ・バンド然とした魅力をより的確に封じ込めることに成功した同作からは、“Walk This Way”や“Sweet Emotion”のヒットも生まれ、アルバム自体も初のプラチナ・ディスクに。その余波もあって初作からのシングル“Dream On”が再プッシュされ、全米6位まで上昇。そうした活況のなか、76年に4作目『Rocks』を発表する頃になると、もはや彼らの人気は決定的なものとなり、日本でもクイーンやキッスと並んで〈三大バンド〉のひとつに数えられるようになっていた。

しかし、その裏側で深刻化しつつあったのが、この時代のバンドには付き物のドラッグとアルコールの問題。少年期からその手のものにお世話になってきたことを認めているスティーヴンは、69年に観に行った〈ウッドストック〉での記憶についても「ジミ・ヘンドリックスが凄かったことしか憶えてないくらい、ずっとトリップしていた」と述懐しているほどだが、実際、世の中に持てはやされるようになれば、その種の誘惑も当然の如く増えてくる。しかもツアーに次ぐツアー、レコーディングに次ぐレコーディングという繰り返しのなかで、ドラッグはストレスを解消させながら想像力と創作意欲を掻き立てる道具にもなっていた。77年作『Draw The Line』はまさにそうした状況下で作られた一枚であり、メンバーも当時の記憶が曖昧であることを異口同音に認めている。

78年は、〈カリフォルニア・ジャムII〉にヘッドライナーとして出演するなど、表面的にはバンドの成功劇を象徴する年となっていたが、73年のデビュー以来、年に1枚のペースで必ずアルバムを発表してきた彼らの歩調があからさまに崩れた時期でもある。この年の秋、初のライヴ作品『Live! Bootleg』をリリースしているのも、裏を返せばオリジナル盤を完成させるのに無理があったからだ。しかも前年の10月には観客がステージに投げ込んだ花火でスティーヴンとジョーが負傷、さらに同年末にはジョーの自宅が全焼するなど、アクシデントも頻発。そうしたなかでマネージメントとの関係も悪化し、ジョーがソロ・アルバム制作の意向を口にするようになると、スティーヴンがこれに激怒。両者間の確執も表面化するようになっていった。

そして79年のツアー中、楽屋でジョーの妻のこぼしたミルクがトムの妻にかかったという些細な出来事が大喧嘩に発展し、結果、ジョーは脱退。制作途中で彼を欠いたまま完成された『Night In The Ruts』は、前3作に匹敵するような成功を収めてはいない。その後、改善されないスティーヴンの生活態度や活動の停滞ぶりに業を煮やしてブラッドまでもが離脱。バンドはジミー・クレスポ、リック・デュフェイという2人の新ギタリストを配した布陣で82年に『Rock In A Hard Place』を発表しているが、エアロの存在はすでに過去のものとなりつつあった。

一方、ソロに転身していたジョーはというと、80年から83年にかけてジョー・ペリー・プロジェクト名義で3枚のアルバムを発表しているものの成功には恵まれず、さらには離婚も経て破産同然の状態に。一時期、彼のプロジェクトの一員としてステージに立っていたブラッドについても状況は似たようなものだった。そして84年2月、2人はエアロのボストン公演に顔を出し、のちに5人全員での話し合いがトムの自宅にて行なわれ、そこでようやく関係修復へと至っている。つまりバンドに見切りをつけた側と、何とかその看板を守ろうとした側が共にどん底を味わい、それを通じて互いの存在が不可欠であるのを理解したことが、結果的には絡まった糸を解きほぐす鍵になったのだ。

 

 

それでも懲りない男たち

以降の歴史について、さほど多くの説明はいらないだろう。もちろん再集結を経て『Done With Mirrors』が発表された85年11月から、すでに27年もの年月が流れている。このアルバムが商業的に失敗に終わったことが、メンバーに〈悪癖と完全に手を切ってクリーンになること〉の必然性を思い知らせ、87年作『Permanent Vacation』での〈新時代のエアロ像追求〉へと繋がった事実もある。さらにトラブルが新たなトラブルを招くのと同様、ポジティヴな方向転換には幸運な出来事を呼び起こす力があるようで、同作発表の前年にはランDMCとの共演による“Walk This Way”が大ヒット。実はそれがエアロの新たなサクセス・ストーリーのスタート地点になったという背景もある。

その後は『Pump』(89年)、『Get A Grip』(93年)、『Nine Lives』(97年)、そして『Just Push Play』(2001年)とリリースの周期こそ長くはなったものの、70年代の実績を超えるヒット作を生み続けている。そして純粋なオリジナル・アルバムとしては実に『Just Push Play』以来となる『Music From Another Dimension!』が、このたび完成に至ったというわけだ。

この新作については“Let The Music Do The Talking”というエアロの教えに従い、この場であれこれと僕個人の感想を書き連ねることは避けておきたい。が、復活劇後の一連の作品とあきらかに異なっているのは、外部作家陣の起用を最小限まで抑え、5人全員の楽曲への関与度が深くなっている事実、そして多くの楽曲が往年のようなジャム・セッションから生まれているということだろう。しかも、そうした側面においては原点回帰的でもあるのに、やはりここには90年代や2000年代に入ってからバンドが学んできたことも反映されているし、それが今作を過去のいずれの作品とも異なった性質のものにしている。

近年ではスティーヴンを巡る脱退騒ぎがあったり、同時期にソロで動いていたジョーが、ツアーのみ代役を立てて本隊の活動を継続させる可能性について言及するなど、昼下がりのドラマめいた愛憎劇的な展開があったことも記憶に新しい。が、重要なのは、そうしたドタバタが話題作りのためではなく、懲りない大人たちが相変わらず音楽活動について貪欲であり続けていることに起因する点だということだろう。まだまだ走り続けたいからこそ、自分に制限を課したくないからこそ、ときどき周囲が見えなくなるメンバーもいれば、葛藤を抱えながらバンドを前に進めることだけに集中してきたメンバーもいる。彼らの物語は誰かの手によって綴られたものではなく、彼ら自身が先を読み切れないまま書き足し続けてきたものなのだ。そんな人間臭いロックンロール・バンドのストーリーは、まだまだ終わりを迎えるはずがない。

 

▼エアロスミスの作品を紹介。

左から、ベスト盤『Devil's Got A New Disguise: The Very Best Of Aerosmith』、2005年のライヴ盤『Rockin' The Joint』(Columbia)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2012年10月17日 18:00

更新: 2012年10月17日 18:00

ソース: bounce 349号(2012年10月25日発行)

文/増田勇一

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