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ELIS REGINA



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没後30周年を記念したエリス・レジーナ関連のニュースを耳にする機会が多かった2012年。フィリップス時代の65〜79年までのオリジナル・アルバムを網羅、レア・トラック集も収録されたメモリアル・ボックスセット『Elis Anos 60』『Elis Anos 70』に加えて、79年に出演したモントルー・ジャズ・フェスティヴァルでの2ステージの模様を完全収録したCD2枚組『Um Dia』のリリースも記憶に新しい。また、エリスの愛娘であるシンガーのマリア・ヒタはブラジル5都市で〈Viva Elis〉と銘打ったトリビュート・ライヴを行った。デビュー以来10年もの間、頑ななまでに母のレパートリーを歌ってこなかった彼女が初めて取り上げたのは“Imagem”“Zazueira”“Maria Maria”など約30曲。エリスが愛したコンポーザーたちの、エリスに歌われることで世に羽ばたいていった名曲たちである(12月に『Redescobrir』としてDVD/CD化されたばかり)。サンパウロの屋外特設会場に詰めかけた観衆は10万人以上とも報じられ、(スター歌手のマリア・ヒタだから相当数の集客を見込んだとしても)ブラジルの人々にとって〈エリス・レジーナ〉という存在が、いまだ色褪せることなくあり続けていることを象徴するトピックではないだろうか? ここ日本においては10〜11月にかけて4都市で開催された〈ブラジル映画祭2012〉の目玉作品として「エリス・レジーナ〜ブラジル史上最高の歌手〜」が上映された。これはかつてトラマからリリースされていた「MPB Especial - 1973 Elis Regina」というDVDと同内容のドキュメンタリー映画(といっても、構成はスタジオ・ライヴとインタヴューのみ)なのだが、やはり〈スクリーンで、日本語字幕付きで観たい!〉というファンの方もたくさんいたと思うし、また、満席の会場はさまざまな年代の観客で埋まっていた。



ポスト・ボサノヴァ期〜MPB期への橋渡し役

エリス・レジーナは1945年3月17日、ブラジル南部の港町ポルトアレグレに生まれる。小さい頃から歌うことが大好きな少女で、夢は当然、シンガーになることだった。家族に音楽業界に縁のある者はいなかったが、その才能をもって14歳で地元のラジオ局と契約。その後、リオデジャネイロへ赴いてレコーディングも行うようになるが、本格的にリオへ進出してTV番組などにも出演するようになるのが64年、19歳の頃である(この間にキャリア最初期に契約したコンチネンタルからフィリップスへとレコード会社を移籍している)。ボサノヴァ後期の当時、リオではよりビートの効いたジャズ・ボッサが人気を博していた。つまり、サンバとボサノヴァのエッセンスを巧みに融合したジョルジ・ベンがデビューし、渡米したセルジオ・メンデスが“Mas Que Nada”をヒットさせていた、そんな時期──最先端のホットでオシャレな音楽が聴ける場所として若者が集っていたのが、数多くのシンガー/ソングライターを輩出したナイトクラブ街、ベッコ・ダス・ガハーファスだ。エリスは〈リトル・クラブ〉という店でコパ・トリオらとショウを始めるものの、その実力に反してなかなか評価されずにいた。〈ハリケーン〉〈とんがらし〉などと呼ばれることもあった気性の激しい彼女は、リオを見限ってサンパウロへと活路を見い出し、〈Boa Bossa〉というショウへの出演を足掛かりに、一連のボサノヴァ・コンサートでエリス・レジーナの名前がクレジットされるようになっていく。

65年4月、エリスにとってのターニングポイントとなる出来事が2つ起こった。ひとつはTV局主催の歌謡フェスティヴァルへの出場。そこで彼女は新進のコンポーザーであったエドゥ・ロボの“Arrastao”を力強く歌い上げて優勝した。そしてもうひうとつは、その2日後にパラマウント劇場で行われたジョンゴ・トリオ、ジャイール・ホドリゲスとのコンサート。〈リオのタンバ・トリオ〉〈サンパウロのジョンゴ・トリオ〉とも評されていたジョンゴ・トリオは別として、当初、エリスの相手役として出演予定だったのはファンク/ソウル系の人気シンガー、ウィルソン・シモナルだったが、急遽の代打としてまったく無名であったジャイールがステージに上がった。スウィング感に溢れ、天真爛漫な歌声で圧倒した彼とのライヴ・パフォーマンスが評判を呼び(後に『Dois Na Bossa』としてライヴ盤となり、当時のブラジルでのレコード売上記録を更新した)、翌月にはエリスとジャイールがパーソナリティーを務めるTV番組「O Fino Da Bossa」がスタート。一躍、スターの仲間入りを果たすことになる。「O Fino Da Bossa」は、MPB(Musica Popular do Brasileira)の成り立ちにも多大なる影響を与えた。この番組が呼び水となり、各TV局はこぞってソング・コンテストを開催。多くのアーティストが表舞台に飛び出していった。エリスもレコード、ステージを問わず、そんな新進のソングライターたちの楽曲を積極的に歌った。エドゥ・ロボ、マルコス・ヴァーリ、ジルベルト・ジル、シコ・ブアルキ、ミルトン・ナシメント、ジョルジ・ベン、イヴァン・リンス、ジョアン・ボスコ……そして、バーデン・パウエルのアフロ・サンバ作品も好んで採り上げている。エリスは、シンガーとコンポーザーによる最良の蜜月時代を築いたと同時に、ポスト・ボサノヴァ期〜MPB期への重要な橋渡し役、時代の象徴となっていく。



女性の地位を高めたエリスの活躍

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エリスの最初の結婚は67年。相手はジャーナリスト/ボサノヴァの音楽プロデューサーとして知られるホナルド・ボスコリで、デビュー当時は〈天敵〉とまで言われたほどの仲である2人の結婚に周囲の人間は皆、驚かされた。74年に録音されたアントニオ・カルロス・ジョビンとのデュエット・アルバム『Elis & Tom』の誕生も、ボスコリが疎遠にあったジョビンとエリスの仲を取り持った、という経緯がある。2人目の夫であるピアニストのセーザル・カマルゴ・マリアーノはエリスの歌を〈深化〉させた人物と言えるだろう。72年作『Elis』からエリスの作品に参加している彼はアレンジャーとしても手腕を発揮した。彼女の音楽的な変遷を辿ってみると、セーザルとの出会いを境にサウンドはよりジャジーに、歌はより内省的になる。エリスはもともと、超一流の自己プロデュース能力を備えたシンガーだったわけだが、レギュラー・バンド(セーザル、ドラムスのパウリーニョ・ブラガ、ベースのルイザォン・マイア) は〈MPBにおける最良のチーム〉と呼ばれるほどの圧倒的なクォリティーを誇り、多様なルーツを持つMPBの大きな指針として、影響を受けたシンガーやミュージシャンは多岐に渡るはずだ。

MPB時代は、女性シンガー、女性ソングライターが飛躍した時代でもある。79年に発表された『Essa Mulher』のタイトル曲はジョイス(作詞はアナ・テーハ)によるもので、男性上位の意識が強かった当時のブラジル社会で女性が作詞作曲し、そしてそれを〈闘う女性〉の象徴であるエリスが歌うというのはとてもセンセーショナルであっただろうし、それまで、同世代ミュージシャンたちの楽曲をピックアップし、彼らの音楽家としての道を明るく照らしたように(……もしかして、本人にその意識がなかったとしても結果的に)、多くの女性アーティストたち、いや、多くのブラジルの女性たちが自信を持って新しい時代への一歩を踏み出せるように、その最初のドアを開け放ったのもエリス・レジーナだったに違いない。82年、やんちゃな〈ブラジル最高の歌手〉が36年10か月の短い生涯を終えた時に葬列の沿道を埋め尽くした人々が大合唱したのは、軍政下にあったブラジルを詩的に批判した当時の〈第二の国歌〉とも言うべき“O Bebado E A Equilibrista”だった。



▼エリス・レジーナのCDボックス。

左から、『Elis Anos 60』『Elis Anos 70』(共にUniversal Brazil)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2013年01月23日 15:30

更新: 2013年01月23日 15:30

ソース: bounce 351号(2012年12月25日発行号)

文/佐々木俊広

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