久保田麻琴
49年、京都生まれ。幼少時代を石川県小松市で過ごした久保田麻琴は、実家が映画館を営んでいたこともあり、10代からジャズやキューバ音楽に触れていたという。同志社大学に入学後、ボサノヴァ・バンドを結成。ブラジルの鬼才、グラウベル・ローシャのカルト映画「アントニオ・ダス・モルテス」(69年)に衝撃を受けたのもこの頃で、30年以上経過した後、その衝撃が彼をブラジルへと導くことになる。
旅先での体験を自身の音楽へと
大学在学中だった70年、フォーク・ムーヴメントにおける重要レーベル、URCから“アナポッカリマックロケ”(久保田誠と村山憲グループ名義)でデビュー。それに前後して伝説的なサイケデリック・ロック・グループである裸のラリーズのメンバーと交流を深め、70年から71年にかけて断続的にライヴへ参加することになった。裸のラリーズの面々との出会いによりロックに開眼した久保田は、70年10月から71年春にかけてNYとサンフランシスコを旅行。その際、グレイトフル・デッドやザ・バンド、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのライヴも体験している。
帰国後の73年、松任谷正隆との共同プロデュースによるデビュー作『まちぼうけ』を発表。本作は日本産アシッド・フォークの名盤として現在もカルト的人気を誇っている。74年リリースの『サンセット・ギャング』は、実質的に久保田麻琴と夕焼け楽団のデビュー作であり、70年代のアメリカを現場で体感してきた久保田のセンスが存分に発揮された作品となった。同じ74年、彼はハワイと西表島を旅行。その成果は翌年発表された久保田麻琴と夕焼け楽団の『ハワイ・チャンプルー』(75年)に結実した。ハワイアンに対する積極的なアプローチはもとより、ここでは西表島で初めて耳にした喜納昌吉の“ハイサイおじさん”がカヴァーされている点に注目したい。その5年後、久保田は喜納昌吉&チャンプルーズの『Blood Line』に全面参加したことでも喜納のブレイクに一役買ったが、こうした活動により、沖縄民謡そのものの一般的な認知が高まったことも忘れてはいけない。その後の久保田麻琴と夕焼け楽団は『ディキシー・フィーバー』(77年)や『セカンド・ライン』(79年)などをリリース。アメリカのディープ・サウスに深く足を踏み入れながら、独自の日本産ロックを生み出していった。
80年代、彼の活動の中心となったのはサンセッツだった。当初はブロンディなどから刺激を受けたニューウェイヴ路線を取り、ジャパンのUKツアーでオープニングを務めたほか、トーキング・ヘッズやユーリズミックスとも共演。84年に発表した“Sticky Music”はオーストラリアのシングル・チャートでトップ5入りを果たすなど、海外でも大きな成功を収めた。85年にはジャマイカへも渡航。85年には演奏のため、ジャマイカに招聘される。まさにダンスホール・レゲエ創世の年、現地でサウンドシステム・カルチャーを体験したことはその後の久保田の活動にさまざまな形でフィードバックされていくこととなる。同年にはJAMES BONG(正体は浪花の漫才師、若井ぼん)による“商売繁盛じゃ笹持ってレゲエ”という河内音頭 meets レゲエ/ダブな異色作をプロデュース。その後、90年までは、スタジオ録音や演奏において繰り返しジャマイカを訪れことになる。なお、久保田は当時スライ&ロビーと頻繁に交流を重ねており、久保田が録ったインドネシアのクンダン(ダンドゥット版タブラ)のオーディオ・データをAKAI MPC60用に譲り受けたスライ&ロビーは、その音を使って数多くのダンスホール・リディムを制作。それは90年前後のダンスホール・シーンのトレンドにもなったというのだから、久保田の影響力たるや恐るべし、である。
音楽家精神はアジア、そして宮古に惹かれ……
80年代末から90年代にかけて、久保田の音楽地図はアジア各地へと広がっていく。インドネシアのデティ・クルニアやエリー・カシムといった歌手たちのプロデュースも記憶しておくべきだが、とりわけ重要なのはインドネシア最高の歌姫、エルフィ・スカエシの『The Return Of Diva』(92年)というアジアン・ポップスの名作を作り上げた点。また、インドネシアのプロデューサー/ミュージシャンと共に新世代ダンドゥット・ユニット、チャンプルーDKIの結成をお膳立てし、デビュー・アルバムでフィーチャーされた“コーヒー・ルンバ”のインドネシア・ヴァージョン“Kopi Dangdut”はカセット100万本を売り上げる国民的な大ヒットとなる。シンガポールのディック・リーやクリス・ホー、マレーシアのアイシャなど、この時期の久保田のボーダレスな活動ぶりは今振り返ってみても圧倒的だ。同じ時期に国内ではTHE BOOMをはじめ数々のプロデュースも行う。
盟友・細野晴臣とのHarry & Mac名義による『Road To Louisiana』(99年)、ニューオーリンズやウッドストックで録音を行ったソロ作『On The Border』(2000年)というルーツ回帰的な2作品を経て、久保田は新たな旅路へと進むことになる。2001年にはマレーシアのマック・チューとジェニー・チン、アレンジャーの池田洋一と共にblue asiaをスタート。バリ島、イスタンブール、ハワイ、ベトナム、バンコク、モロッコをテーマに作品制作を行ったこのプロジェクトは、イージー・リスニング/アンビエント風のムードを匂わせながら、現地音楽家による味わい深い歌と演奏もしっかりパッケージ。ヨーロッパでも多くのメジャー誌で紹介され、ヒットを記録した。2004年には初めてブラジル北東部へ。35年前に観た映画「アントニオ・ダス・モルテス」を追体験すべく訪れたレシーフェのカーニヴァルで、久保田は衝撃を受ける。そこで得たインスピレーションを元に2枚のコンピ〈Nordeste Atomico〉と、松田美緒とブラジル北東部のミュージシャンとの共演作『Vida Carnavalista』(2006年)を制作。2005年にはモロッコの伝統トランス音楽、グナワを求めてモロッコのエッサウィラへ、その翌年にはエチオピアへ……と精力的に世界各地を飛び回る。
そんな彼にとって大きな転機となったのが、2007年に宮古島を訪れたことだった。70年代後半から80年にかけては喜納昌吉を通じて沖縄本島との縁を深めていた久保田だったが、宮古島の神歌や古謡と出会ったことで日本列島の古層に眠る歌に開眼。2009年には宮古島や波照間島、多良間島の貴重な録音をまとめた〈南嶋シリーズ〉を4作プロデュース。さらに徳島で長年行われている阿波踊りの音楽的な魅力に着目し、2010年の『ぞめき壱 高円寺阿波おどり』を皮切りに4枚の〈ぞめき〉シリーズを作り上げた。2012年には滋賀県に伝わる江州音頭の貴重音源をリミックスした『久保田麻琴レア・ミックス 江州音頭 桜川百合子』を手掛けるなど、久保田は日本固有の歌/リズムへとどんどん突き進んでいく。また、この2012年には原案・監修・整音・主演とひとり四役をこなした映画「スケッチ・オブ・ミャーク」が公開され、知られざる宮古島のフォークロア、そして古謡の数々に多くの観客が心を打たれた。そうした一連の〈日本・再発見〉シリーズにおいても、これまでの旅で培ってきた技術やコネクションが活かされているのが久保田らしさ。徳島と高円寺の阿波踊りの中にキングストンとUKレゲの関連性を見い出したり、宮古の神歌に「アントニオ・ダス・モルテス」と同じ響きを感じ取る──別項でも紹介しているblue asiaの『RADIO MYAHK』と、八重山民謡の名手、大工哲弘の『Blue Yaima』という最新の仕事にもまた、そうした久保田の視線は貫かれている。ここに古くて新しい〈日本像〉を発見し、心を揺さぶられる日本人は少なくないはずだ。
現在も、オーボエ奏者、tomocaのアルバムなど、いくつかのプロジェクトを進行しているほか、冒頭に書いたようにテルアヴィヴの最新音楽事情にも強い関心を寄せているという久保田。〈音の錬金術師〉の長い長い旅は、まだまだ続きそうだ。
▼関連盤を紹介。
左から、喜納昌吉&チャンプルーズの80年作『Blood Line』(ユニバーサル)、JAMES BONG“商売繁盛じゃ笹持ってレゲエ”収録のコンピ『世界最強河内系SONGS 続、続々カワチモンド』(コロムビア)、スライ&ロビーのプロデュース/リミックス楽曲を集めたコンピ『Dancehall Attack!』(ビクター)、2005年のコンピ『Nordeste Atomico Vol.1』、2006年のコンピ『DEEP SAMBA -Nordeste Atomico Dois-』、松田美緒の2006年作『Vida Carnavalista』(すべてビクター)、2010年のコンピ『ぞめき壱 高円寺阿波おどり』、2011年のコンピ『ぞめき弐 徳島阿波おどり 正調連』『ぞめき参 徳島阿波おどり 路上派』『ぞめき四 Awa Grooves &Remixies』(すべてABY)、2012年作『久保田麻琴レア・ミックス 江州音頭 桜川百合子』(テイチク)