CHICAGO CALLING――モーリス・ホワイトの音楽的素養を育み、EW&Fのルーツとなった風の街、シカゴ
20年近くパーキンソン病と闘い続けているモーリス・ホワイトは、今回の新作には詩的な短文を寄せたのみ。楽曲参加はないが、それでもEW&Fの創立者であるモーリスはバンドの精神的支柱としてトップに君臨している。
メンフィス出身、41年生まれのモーリスは、高校卒業後、医者をめざすためにシカゴに向かった。だが、ある日、ドラマー不在のバンドでスティックを握ったところ評判を呼び、専攻を音楽に変更。60年代初頭にはジャズメンという学生バンドに参加する。同時にオーケーやチェスといった同地のレーベルでもドラマーとして活躍。特にチェスでは多様なセッションで腕を磨き、フォンテラ・バス“Rescue Me”やビリー・スチュワート“Summertime”などでドラムの快演を披露している。そして、66年にはアイザック“レッド”ホルトの後釜としてラムゼイ・ルイス・トリオに加入。結果的に3年ほどの在籍となったが、ファンキーなソウル・ジャズ・ナンバーのボトムを支え、69年作『Another Voyage』収録の“Uhuru”ではカリンバもプレイ。トリオ在籍時にはチェスのスタッフだったチャールズ・ステップニーがプロデュース/アレンジを手掛けるミニー・リパートンのソロ・デビュー作『Come To My Garden』(70年)でもドラムを叩いた。
69年にラムゼイ・ルイス・トリオを脱退したのは、もっと若者向けの音楽を作りたいと思ったからだという。そこで結成したのがソルティ・ペッパーズというバンドで、キャピトルの配給でシングル“La La Time”を発表。が、ほとんど話題にならず、モーリスは新天地を求めてLAに向かい、そこでEW&Fを結成した。同じ頃、学生時代に在籍していたジャズメンの仲間はファラオズというアフロ・セントリックなジャズ・バンドで『Awakening』(71年)というアルバムを録音。その数年後、ステップニーは共同制作者として、ファラオズに参加していたドン・マイリックやルイス・サターフィールドはフェニックス・ホーンズとしてEW&Fに合流する。一方、モーリス及びEW&Fはラムゼイ・ルイス“Sun Goddess”(74年)をバックアップし、師匠に恩返し。こう見ていくと、ジャズに根差したグルーヴや鮮やかなブラス、エジプト〜アフロ回帰志向といったEW&Fのサウンドやコンセプトは、ステップニー亡き後のアレンジャーとなったトム・トム84も含むシカゴ人脈から体得したものであることがわかる。原点回帰を謳った新作も、その原点を紐解いていくと、モーリスがシカゴで過ごした日々に辿り着くのだ。
▼関連盤を紹介。
左から、フォンテラ・バスのベスト盤『Rescue Me』(Chess)、ビリー・スチュワートのベスト盤『The Best Of Billy Stewart: The Millennium Collection』(Universal)、ラムゼイ・ルイスの66年作『Goin' Latin』(Cadet)、ミニー・リパートンの70年作『Come To My Garden』(Chess)、このたびリイシューされたファラオズの71年作『Awakening』(Scarab/SHOUT!)
▼EW&Fメンバーがバックアップしたラムゼイ・ルイスの作品。
左から、74年作『Sun Goddess』、76年作『Salongo』(共にColumbia/ソニー)
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