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透明感を湛えた新作で〈あの頃には戻れない〉と歌いかけるトレイシー・ソーン

連載
久保憲司のロック千夜一夜
公開
2010/05/19   18:01
テキスト
文/久保憲司

 

ロック・フォトグラファーとして活躍、さらにロック・ジャーナリストとしての顔も持つ〈現場 の人〉久保憲司氏が、ロック名盤を自身の体験と共に振り返る隔週コラム。今回は、28年前を彷彿とさせる透明感を湛えたソロ3作目『Love And It's Opposite』を発表するトレイシー・ソーンについて。彼女はぼくに、〈あの頃には戻れない〉と優しく歌いかける――。

 

トレイシー・ソーンの3枚目のアルバム『Love And It's Opposite』がいいのである。彼女の初ソロ・アルバムである名盤『A Distant Shore』が28年の時を経て甦ってきたかのようなのである。

なんてことを書いてもギター1本と彼女の声だけで作られたような『A Distant Shore』のことを、これを読んでいる人がどれだけ知っているのかわからないけど、本当にいいアルバムなのでぜひ聴いてもらいたい。当時はオシャレなカフェ、洋服屋さんに入ると、このトレイシーのつたないギターと、弱そうだけど、どこか芯のある歌声がよく聴こえてきた。

でも、ぼくとしては、そういうオシャレな雰囲気とかじゃなく、彼女の強い意志みたいなものを感じてほしいのである。残念ながら、それが何なのか上手く書けない。それは、売れたいとか、私はこんなことを知っているとか、私はここにいるとか、そんなことじゃなくて……なんだろうこの透明感は。なんて、説明したらいいんだろう。

パンクの精神も入っている。パンクがギターをガチャガチャ言わせるなら、私はギターを爪弾きながら歌うわ、という想い。そういうのが、ぼくは82年の時には好きだった。でもいま久しぶりに『A Distant Shore』を聴いてみたら、もっと彼女がいろんなものを歌おうとしていたというのが大きな波のようになってぼくに押し寄せてきている。

トレイシー・ソーンの相方で、のちに彼女とエブリシング・バット・ザ・ガールを組むベン・ワットも、彼女に遅れること1年、ソロ・アルバム『North Marine Drive』をリリースしている。こちらも実につたないアルバムである。しかし、素晴らしい。『A Distant Shore』と『North Marine Drive』はセットで聴いてほしい。

でも実は、ぼくはトレイシー・ソーンがいたマリン・ガールズの大ファンだったので、このふたつのアルバムはそんなに聴いていなかった。ぼくとしてはマリン・ガールズをやってくれよという思いが強かったのだ。お店に入った時に、トレイシー・ソーンのソロがかかっているな、ベン・ワットのソロがかかっているなと思って聴いていたくらいだった。

話が変わってしまいそうで申し訳ないんだけど、今回トレイシー・ソーンの資料を読んでいたら、〈カート・コバーンはマリン・ガールズのファンだった〉と書いてあった。やっぱ趣味がいい人だなと思う。マリーン・ガールズもいいんでみなさん聴いてみてください。

しかし、外人の人はよくいろんな音楽を聴いているなと思う。カート・コバーンはあんな田舎に住んでいて、どうやってマリン・ガールズとかを知っていたのだろう。オリンピアのフェミニズム周辺でマリン・ガールズは再評価されていたんだろうか。それとも81年からずっと聴き継がれていたんだろうか? MGMTとかガールズが〈フェルトが好き〉とか言っているのに近いんだろうな。自分の感覚で自分の好きなものを捜す、っていう。

すいません、話をトレイシー・ソーンに戻します。でも、なんかか上手く戻せないな、ぼくの82年の頃の青春がドーンと押し寄せているような気がして。村上春樹にとっては84年が大事な年だそうだが、ぼくにとってはこの頃、81年とか、82年とかが大事な気がしてならない。どう大事かというと、パンクという思想を自分の人生にどう使おうかと試行錯誤していた時期だからだと思う。そして、トレイシー・ソーンもベン・ワットもそういうことを考えていたんだと思う。もう一度戻ってみたいなと、思う。そして、もう一度やり直してみたいと思う。

トレイシー・ソーンの『Love And It's Opposite』を聴いていると、ぼくに〈そういうことはできませんよ〉と、優しくあの当時の歌で歌ってくれているような気がして仕方がない。いいなと思っているのは、そんなところ。もちろん、もう82年の頃のようなつたなさはない。いや、あるのかもしれない。本当に難しいな。28年の歳月を、ぼくはどうみんなに伝えたらいいんだろう。ぼくが挙げたアルバムを全部買ってみて、ゆっくり聴いてもらいたいと思う。それくらいしか、ぼくには言えないな。

 

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