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第25回――キャンディーズ

連載
その時 歴史は動いた
公開
2011/09/17   17:22
更新
2011/09/17   17:22
ソース
bounce 332号 (2011年5月25日発行)
テキスト
文/久保田泰平

 

77年7月17日。東京・日比谷野外大音楽堂。この日、ステージに上がっていたのは人気絶頂の3人組アイドル・グループ、キャンディーズ。ひと夏をかけて巡る全国ツアーの初日は、大盛況のまま幕を閉じる……はずでした。〈普通の女の子に戻りたい!〉——演目が終了した後、ステージに立ちすくんだメンバーはそう言って泣きじゃくりながら、突然解散を発表したのです。詰めかけたファンも、ほとんどのスタッフも予想していなかった出来事。しかし、〈その時〉からキャンディーズは伝説化へのカウントダウンを刻みはじめたのでした。

結成されたのは72年。東京音楽学院に通っていた3人——伊藤蘭(ラン)、藤村美樹(ミキ)、田中好子(スー)は、NHK「歌謡グランドショー」のマスコット・ガールに選ばれ、グループ名を〈キャンディーズ〉と命名されます。翌73年9月には“あなたに夢中”でレコード・デビュー。セールスは決して芳しいものではありませんでしたが、三声を活かしたコーラスワークにアイドルらしからぬポテンシャルを垣間見せていた歌声は、新しいスターの誕生を予感させるものでした。そんな彼女たちの人気に火が点くのは、デビューから1年半後の75年。5枚目のシングルとなる“年下の男の子”が初のTOP10ヒットとなり、その年の「NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たしたのです。

〈アイドル〉というカテゴリーが大衆化しはじめた70年代初頭、いわゆる〈草創期〉の女性アイドルといえば、南沙織や天地真理、キャンディーズと同年にデビューした桜田淳子や山口百恵のようにソロ・アイドルが主流で、言うなればキャンディーズは本邦初のグループ・アイドルでした。ただし、彼女たちはその目新しいフォーマットだけで注目を集めたわけではなく、大衆性のなかに高い音楽性を持ち合わせていた楽曲の魅力と、それに見合った音楽的なスキルが大きく物を言っていたのです。さらに、レギュラーだった「8時だよ!全員集合」などヴァラエティー番組に出演しては大物芸人相手に芸達者ぶりを見せるなど、ユーモラスで親しみやすいキャラクターも手伝って、同世代の男性ファンを中心としながらも、その存在は性別や世代の壁を越えて幅広い層に受け入れられていきました。

“年下の男の子”以降、ソウルフルなアレンジのなかで卓越したリズム感覚とパンチのあるヴォーカルを聴かせた“その気にさせないで”(75年)、複雑なコーラスワークが独特のエモーションを湧き上がらせる“ハートのエースが出てこない”(75年)、スプリング・ソングのスタンダード“春一番”(76年)、メランコリック歌謡の真髄“哀愁のシンフォニー”(76年)、セクシーな衣装でオトナ化を図った吉田拓郎作“やさしい悪魔”(77年)——フレッシュで多彩な楽曲を立て続けにヒットさせ、毎日のようにTVやラジオでその姿をお茶の間に届け、トップ・アイドルとして八面六臂の活躍を見せていた3人でしたが……。

解散は翌78年4月に決定。解散宣言以降、彼女たちの意志を汲んだファンの熱気は高まり、全国規模の私設ファンクラブ〈全国キャンディーズ連盟〉は、コンサート会場の警備やバス・ツアー、フィルム・コンサートの企画、キャンディーズにオリジナルの楽曲を贈るなど、最高の形で解散させてあげようと8か月余りの間にさまざまな形で彼女たちをサポート。そういった働きかけは(活動期間中の)ラスト・シングル“微笑がえし”で獲得した初めてのオリコン・チャート1位にも繋がったのです。

78年4月4日。後楽園球場に5万5千人のファンを集めるという当時としては空前の規模で行われた解散コンサート〈CANDIES FINAL CARNIVAL〉で、〈本当に私たちは幸せでした!〉の言葉を残し、3人は普通の女の子に戻っていきました。その後再結成はないものの、各々は芸能界に復帰(ミキは一時的に)。それでもこのグループの存在は年月を重ねるごとに伝説/神格化します。それというのも、キャンディーズを越えるスーパー・グループがいまだ現れていないから……なのかもしれません。そして11年4月21日、田中好子が他界し、ランとミキが弔辞を読み、その報道を観た多くの人たちが、30年以上前に解散したアイドル・グループに思いを馳せました。それぐらい、キャンディーズは日常的で大きな存在だったのです。

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