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第1回 ─ ルー・リード『Transformer』を聴いて想う

連載
久保憲司のロック千夜一夜
公開
2004/07/22   17:00
更新
2004/07/22   20:42
テキスト
文/久保 憲司

『NME』『MELODY MARKER』『Rockin’ on』『CROSSBEAT』など、国内外問わず数多くの音楽誌でロック・フォトグラファーとして活躍、さらにロック・ジャーナリストとしての顔も持つ久保憲司氏の週間コラムがbounce.comに登場! 常に〈現場の人〉でありつづけるクボケンが、自身のロック観を日々の雑感と共に振り返ります。

 普通の人があたりまえにインターネットを使うようになって数十年(そんなに経ってないけど)、何となくコンピューターから縁遠い生活を送ってきた。普段はカメラマンの仕事をやっているんだけど、十年前は「デジタルか……」と言えていたのに、今は最新の技術を覚えないと本当に時代から取り残されそうな気がする。インターネットもなんとなく見るようになった。〈ブログ〉ですか? 音楽好きの一般人が書いているレビューの中に、本当におもしろいものを見つけることもあったりする。そういうのを見ているとなんか、「音楽評論家というのはなくなっていくんじゃないのかな」という危機感を感じてしまう。たとえ音楽評論家がなくならなくても、「音楽評論家でプロとして生きていくのはもう難しいんじゃないか」と思ってしまう。それはちょっと悔しいので、ブログらしい素人さ(ぼくはもともと素人ですし)を出しつつ、なんかおもしろいものが出来ないかな、と思ったのが、今回から始まるこの連載です。

 インターネットが雑誌より素晴らしいと思える部分は、例えばこの連載のバックナンバーがウェブ上に残っていくということ。もちろん雑誌も保存すれば残るけど、場所を取るし自分の原稿だけ切り取ってまとめるなんてマメなこと、ぼくには出来ない。この連載がある程度まとまったら、〈久保憲司のロック・ベスト100〉みたいなガイド・ブックっぽい形になっていればいいと思う。そしてそこに、ぼくなりのロック観、ロックの歴史が見えてくればうれしいな、と思っている。

2004年7月16日(金)
  ここ最近で一番うれしいことは、ウイリアム・バロウズの『ジャンキー』がすらすらと読めたこと。子供の頃は何度トライしても読めなかったのに。『ジャンキー』は本当にただのジャンキーの話だ、でもなぜか惹かれる。それは多分この本が、バロウズ特有の〈すべての管理社会への被害妄想的な拒絶感〉に繋がっていくからだろう。「親父、それは間違ってないかい」と思わせながらも、なんか納得させてしまうあの感じ。今となってはどうってことない話をここまで読ませるのはさすがと思う。村上龍氏の『限りなく透明に近いブルー』の元ネタもバロウズだったんだな、と驚く。『限りなく透明に近いブルー』の終わりは大きな黒い鳥が見える、というものだったと思うが、『ジャンキー』はメキシコに幻のドラック、ヤヘーを探しにいく、というものだった。本当にそんなドラッグあるのかね? 村上氏は〈黒い鳥〉を何かの象徴として描いていた。それを殺すのか、あるいは抱えたまま生きていくのか、と考えている所で終わっている。一方で、バロウズの〈ヤヘーを探しにいく〉というのは「俺は幻想の世界に生きるぞ」という宣言だったのだろう。彼がなぜジャンキーで居続けたかというと、自分がゲイであるのが嫌だったからなのではないか。一度足を洗ったのに、またドラッグにハマってしまったきっかけが、「お酒に酔っぱらって男を買おうとして、その男に騙されたからだ」、というエピソードからもそれがわかる。アレン・ギンズバーグなどは普段の動作、しゃべりからオカマちゃん大爆発なのに、バロウズがゲイを嫌っているのは不思議だ。いずれバロウズの『おかま』も読まなければならない。

 ルー・リードがヴェルヴェッド・アンダーグラウンド時代「ロックの世界は小説の世界よりも遅れている。小説の世界ではジャンキーやゲイなど普通の人が知らない世界を描いているのに、いまだにロックは愛がどうしたとか、そんなことを描いている」と言っていたように“I’m Waiting For My Men”はまさにバロウズの『ジャンキー』そのままの世界だったのでびっくりした。

  というわけで、家にあったルー・リードの『Transformer』を久々に聴いた。これまでは、“Vicious”“Walk on the Wild Side”など、いくつかの名曲が入っているだけの駄作だと思っていた『Transformer』だが、改めて聴いてみて、すべて名曲揃いなのに感動した。捨て曲一曲もなし、デヴィッド・ボウイのバックアップのせいか、いつものルー・リードのような〈すべての曲がスリー・コードと6度マイナーでできている〉という感じではなく、なかなか複雑。歌詞もヴェルヴェッツ時代よりも完成されていて、何度聴いても飽きない。普通に生きようと決心したジャンキーが、普通の生活を歌にしつつもどこか寂しげな“Perfect Day”の美しさ、悲しさは本当に凄い。この時期ルー・リードはロンドンのセント・ジョーンズ・ウッドに住んでいた。ぼくもその辺に住んでいたことがあって、〈公園に行って サングリア飲んで暗くなったら家に帰る。動物園にいって(ロンドン・ズー)エサをあげて、後で映画(スカラ)に行く〉という詞がよくわかる。ぼくもそういう楽しい生活をしながらも将来に不安を抱えていた。ルー・リードもそうだった。前作が全然売れなかった事も関係しているのだろう。“Satellite of Love”で描かれているのは、ストーカーのラブ・ソング。これも美しい。世界で一番美しいラヴ・ソングだ。〈ちょっと見て 後でテレビで見る テレビで見る方が好き〉という所は何度聴いてもゾクッとする。でもこれはよく考えると、アンディ・ウォーホルのスーパースター感を歌にしてるだけだ。では、ルー・リードの歌がなぜいいのかというと、すべてなげやりな所がいいのだ。『Transformer』がこんなに凄かったとは。『Berlin』も聴き直してみよう。