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第33回 ─ 音楽への愛を追求するBECKは究極のポップ・スターになれるのか?

連載
久保憲司のロック千夜一夜
公開
2005/03/17   16:00
更新
2005/03/17   18:51
テキスト
文/久保 憲司

『NME』『MELODY MARKER』『Rockin' on』『CROSSBEAT』など、国内外問わず数多くの音楽誌でロック・フォトグラファーとして活躍、さらにロック・ジャーナリストとしての顔も持つ〈現場の人〉久保憲司氏が、ロック名盤を自身の体験と共に振り返る日記コラム。今回は、3月30日に発売されるベックの新作をご紹介!

2005年3月11日(金) Beck『Guero』

  ラジオではもう流れているハードなギター・ナンバー“E-PRO”から始まるベックの最新作『Guero』。ギターは今作に数曲参加しているホワイト・ストライプスのジャック・ホワイトか!? リフの感じはジャック・ホワイトというより、カサビアンに近い。この曲で「ベックもハード路線に突入か?」と思いきや、彼のヴォーカルが始まるとがらっと転調したかのように全てがベック色になる。素晴らしい。しかし、これがベックの魅力であり、弱点でもある。どんなに新しいことをしていても、自身の存在の強さに周りの音が薄れてしまう。存在感があると思わせながらも、ちょこっといじめられっ子キャラみたいな弱さもある。ベックは一体何者なんだろう? アメリカ人じゃないみたいなんだよな、イギリス人のような。彼の音楽にはディスコ、ファンク、ソウル、カントリー、ブルースなどアメリカで生まれた音楽の要素がすべて詰まっている。『Guero』ではサイケデリック・ガレージにも挑戦している。これらの音楽ってとっても重要なんだけど、アメリカではガレージ・セールで100円とかで売られている音楽だ。こういうのを発掘して、愛情を注いで価値あるものにしているのってイギリス人なんだよな。ベックの音楽にぼくは音楽への愛を感じる。

  R.E.M.やトーキング・ヘッズのように、ブルース・スプリングスティーンとは違った形でショッピング・モールの裏側で起こっているアメリカの現実を歌ったビッグ・バンド――と同じようにベックは捉えられがちなんだけど、ぼくは違うと思う。アーティストはそういうことを歌うべきなのかもしれない、ベックも“Looser”ではそういうことを歌っていたのかもしれない。『Mutations 』、『Sea Change』などはそうあろうとするベックの気持ちが表れているのかもしれない。90年代中盤には完全に〈ないもの〉とされていた、アメリカン・フォーク・ミュージックを一生懸命再現しようとしていたことからも、この人は本当に音楽が好きなんだなというのがよく伝わってくる。

  埋もれていたファンクのレコードをサンプリングしてきて音楽にしているだけ、という表層的なものじゃない。その時代の空気とか、それを作った作者のグルーヴ感とかを本当に愛しているんだな、というのが今回色々聴き直してみてあらためて感じたことだった。ポップなアルバムと内省的なアルバムを交互に出してきた。それはコンセプト的にかっこいいからとか、ポップなアルバムでは全部表現出来ない部分を補うためなのだろうと思っていたけど、それは自分の素直な音楽への愛をごまかすための方法だったんじゃないだろうか? もちろんアーティストはそんなことでアルバムを作ったりしないというのはよく分かっているけど。

  『Guero』は、『Odelay』や『Midnite Vultures』の延長線上の音で、たくさんの踊れるいい曲が入ったアルバムだ。でも、どことなくポップなアルバムと内省的なアルバムを交互にリリースするというスタイルの終焉も予感させるアルバムである。この後ベックが究極の音楽を追求するポップ・スターになるのか、内省的なアルバムだけを出すジュリアン・コープのような存在になるのかぼくは分からない。でも『Guero』を聴いているとやっぱり次は本当にアーティストとして全てを一つで表現するようなとんでもないアルバムを作るような気がして仕方がない。