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第6回 ─ JBが率いたファンキーな人々

連載
IN THE SHADOW OF SOUL
公開
2005/06/23   13:00
更新
2005/06/23   21:03
ソース
『bounce』 265号(2005/5/25)
テキスト
文/林 剛

ソウル文化遺産を新たな視座でリフォーマット。今回はジェイムズ・ブラウンが興した諸レーベルについて

JBサウンドを多様に体現したさまざまなレーベルのがむしゃら魂

去る3月13日、リン・コリンズが56歳の若さで他界した。リンといえば、ジェイムズ・ブラウン(以下JB)のショウにフィーチャーされた歴代の女性シンガーのなかでもトップを争うほどの人気者。その表現力と説得力に満ちた歌声をして〈The Female Preacher(女説教師)〉と呼ばれたほどの女傑である。70年代にはJBのプロデュースで2枚のアルバムを残しているが、とりわけ72年にリリースされたアルバムの表題曲“Think(About It)”は、ロブ・ベース&DJ EZロック“It Takes Two”(88年)などでサンプリング・ネタとして引用され、いまなお人気が高い。そんなリンが在籍していたのが、彼女の後見人であるJBが運営していたレーベルのひとつ、ピープルだった。

〈ショウビズ界でもっとも忙しい男〉と呼ばれたJBは、デビュー時に自身の組織〈ジェイムズ・ブラウン・プロダクション〉を企て、以後トライ・ミーなどいくつかの自主レーベルを設立。そんななかピープルは、アーティストのネーム・ヴァリューも含めてもっとも成功を収めたレーベルだった。その設立は71年春。この頃といえば、ちょうどモータウンにおいてもマーヴィン・ゲイらがレーベル側からセルフ・プロデュース権を獲得した時期であり、実はJBがピープルを設立したのも在籍していたキングへの対抗策だったと囁かれている。ポリドールとの契約直前の設立ということもあって、その一瞬の無契約期間にJB自身も“Escape-Ism”のシングルをピープルからリリースしていたりした。

 間もなくピープルはポリドール傘下に収まり、JBは自身の周辺で活動するアーティストをそこから送り出していくことになる。その顔ぶれは、70年代JBサウンドの屋台骨となったJB'sを筆頭に、リン・コリンズ、メイシオ(&ザ・マックス)、スウィート・チャールズ、レオン・オースティン、それに“Sho Nuff”というメロウ曲が人気のスライ・スリック&ウィキッドというスウィート系のグループまで実に多彩。レーベルメイトの結束も固かったようで、ピープルの代表選手が結集したファースト・ファミリー名義でのシングル“Control”もリリースされている。またピープルとほぼ同時期に稼動していた自主レーベルとしてはブラウンストーンやアイ・デンティファイがあり、特にブラウンストーンは、60年代にもJBの制作でレコードを出していたボビー・バード&ヴィッキー・アンダーソン夫妻が顔役となったことで知られている。

 もっとも、それらすべてのアーティストが成功したわけではない。なかにはいわゆる一発屋もいた。だがピープル設立前にキングなどから出されたJBプロの作品も含め、70年代前後のJB周辺は最高に脂が乗っていた時期。後にサンプリングやブレイクビーツに使われたJB関連の曲も、ほとんどがこの時代のものだ。その快進撃は75年頃まで、と長くは続かなかったが、〈ファンキー〉を合言葉にアーティストと手を繋ぎ、レーベルという枠組を超えて唯一無二のマンズ・ワールドを広く世に知らしめた功績は、これまで以上にもっと評価されて然るべきだろう。

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