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第139回 ─ アシッド体験を経てミニマルなグルーヴを獲得したノイ!

連載
久保憲司のロック千夜一夜
公開
2009/05/28   16:00
更新
2009/05/28   17:45
テキスト
文/久保 憲司

 「NME」「MELODY MARKER」「Rockin' on」「CROSSBEAT」など、国内外問わず数多くの音楽誌でロック・フォトグラファーとして活躍、さらにロック・ジャーナリストとしての顔も持つ〈現場の人〉久保憲司氏が、ロック名盤を自身の体験と共に振り返る隔週コラム。今回は、ジャーマン・ロックの秘宝バンド、ノイ!のトリビュート・アルバム『Brand Neu!』について。

  ノイ!のトリビュート盤『Brand Neu!』が出たりする、いまのノイ!再評価をとっても嬉しく思うけど、大阪人のぼくとしては何か不思議な感じがする。何故なら、ノイ!のあのグルーヴと音は、INU、ウルトラ・ビデなどの関西パンクが登場した頃から、休むことなく、ずっと鳴り続けてきているような気がするからだ。それはBOREDOMSに受け継がれ、いまも関西のどこかで鳴っている気がする。手前味噌で恐縮だが、ぼくがプロモーションを手伝っているDAMAGEというバンドなんかにもそれを感じてしまう。

  関西には阿木譲さんの伝説の雑誌「ロック・マガジン」があったからかこう感じてしまうのか、ぼくにはよく分からないけど、ノイ!のクラウス・ディンガー言うところの「道路に沿ってどんどんドライヴしていくような感覚。動き続けるという生命の本質」という彼らのビートは、大阪の人間には凄く合っているような気がする。規則正しい機械のようで、どこか曖昧なノイ!のビート感が、「しっかり商売しまっせ」と言いながら、基本的にアバウトな大阪人の性格と合っているように感じてしまうのだ。

ノイ!のクラウス・ディンガーは、60年代の後半をLSDとロック・バンドのツアーに費やしたそうだ。しかし、LSDをやって何故、こうもマシーンのようなミニマルなグルーヴになるのか不思議である。ウッドストックなんかの映像を見ていると、アシッドでぶっ飛んだヒッピーのお姉さんはクネクネと踊っているのに。あれはかっこ悪いね。

  でも人によってはアシッドをやると、すべてがカクカクと決まっていかないと気持ち悪く思うようだ。スティッフ・レコードのデザイナーだったバーニー・バブルズ(ぼくはいま、この人のデザインが好きで好きで仕方がない。デザイナーじゃないよ、芸術家だよ)がデザインしたホークウィンドの名ジャケットを見ると、どこがサイケなのという感じだけど、でもこのビシッとしたデザインこそが本物のアシッドという感じもして、キショ気持ち良くてかっこいいと思う。

もちろんロシア・アヴァンギャルドに影響されているというのはあるんだろうけど、アシッドをやった結果、こういうカクカクとして理路整然としたデザインになるのは感覚としてよく分かる。アシッドをやると、すべてに意味があるような気がしてくるのだ。いま風が吹いたのも、凄く意味があるように思えてくる。すべてがリンクし、世界がひとつになって、自分もその一部として機能しているという高揚感にさらされる。そういう感じが、世界の法則が分かったみたいな感覚に繋がっていくのだ。

ポール・マッカートニーの自伝「メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」(ロッキング・オン社からの名著)のなかで、こんな感動的な話が語られている。すでにアシッド体験を済ませていたジョン・レノンに遅れを取っていると思っていたポールは、レコーディング中に間違ってアシッドを食べて気分が悪くなったジョンが屋上で休んでいると聞き、いまこそぼくもやるべきだとアシッドを食って屋上に向かう。そしてジョンの目を見て、「ぼくも世界のすべてが分かったよ」と言うのだ。まさにこれです。まあ、アシッドですべてが分かったって、それあんたの思い過ごしでしょうって思うんだけど(笑)。

話が変な方向に行きました。ノイ!のグルーヴを聴いて、この工業的なハンマー・ビートが白人のビート感なのだってことがよく言われます。でも、それよりも、単にアシッドによってカクカクしつつも、どこか曖昧なビートが生まれていて、それが気持ちいいんだと言う方が、彼らのグルーヴの表現としてはぴったりくると思う。

  白人のビート感=機械的なハンマー・ビートというのはとっても短絡的なことだと思う。この理論って、元々はリトル・リチャードが、何故あなたのビートはそんなにハードなのかと訊かれて、「線路の脇に住んでいて、汽車のガタン、ゴトンという音を聴きながら育ったから、俺のビートはこうなったのだ」と言ったことから始まっている。それがストゥージズ時代のイギー・ポップの「俺はモーターウェイ脇のトレーラーハウスに住んでいて、そこを通るトラックのガタン、ガタンという響きが、俺たちのハードなリズムになったのだ」という発言に引き継がれ、さらに、イギリスのシェフィールドのエレポップの人たちの「自分たちは工業地帯の側に住んでいたからこういう音を作るようになったんだ」という言葉に引き継がれていっただけだと思う。アーティストが評論家を喜ばせるためのリップ・サーヴィスでしかない。

しかし、いまノイ!が再評価されてるというのは、ぼくたちはこの後の物語を持っていないということなんだろうなとも思う。世の中が工業化社会から情報化社会になったけど、ぼくたちは情報化、インターネット時代のビートを持っていないのだ。そして、これから始まるだろう宇宙時代、人間は自然の体だけでは生きていけないだろうと言われている。何万光年も旅をするためには、老化する器官を人工的なものと交換しないとダメだろう。自分たちがマン・マシーンのようになって生き続ける時のグルーヴを、有機と無機が交差するノイ!のリズムに夢見ているのかもしれない。

ノイ!のこのトリビュート・コンピを聴いて思うことも、まさに、ノイ!はいまの自分たちに必要なグルーヴなんだろうなということだ。ノイ!と同じように前衛音楽の子供であるヴェルヴェット・アンダーグラウンドのミニマルなビートに触発され、ヒッピー臭さも少し残しながらも、永遠に進んでいこうとするノイ!のビートを、いまのぼくたちは気持ちよく思ってしまうのだ。

このコンピには、オアシスまで参加している。彼らもノイ!にやられてしまっているのは衝撃だよね。ライナーには、ポール・ウェラーも影響を受けてると野田努さんが書いている。本当か! 凄い。ノイ!の音楽をサイケデリックと考えれば当たり前のことなんだけど。

  みなさん、色々とアレンジしていますが、ノイ!のグルーヴ感だけは変えてないですね。そのことも凄い。唯一、コーネリアスだけがノイ!のビートを構造主義的に分解していってます。小山田くんは本当にかっこいいなと思う。