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第4回――オメガトライブ

連載
その時 歴史は動いた
公開
2009/06/24   18:00
ソース
『bounce』 311号(2009/6/25)
テキスト
文/久保田泰平



輸入レコード店やFMラジオ局が全国的に増え、海外の音楽情報をよりスピーディーにキャッチできるようになってきた80年代初頭。日本の経済的地位向上は人々を海外リゾートへと連れ出し、JJやPOPEYEなどファッション誌が推し進めた〈カタログ化〉によって、ひと昔前には幻想止まりだった海外文化がより身近になっていきました。そういった感覚を〈オシャレ〉と思えるようになってきたこともあり、国内の音楽シーンではかねてから洋楽への深い造詣を作品に織り込んできたアーティストに大きなスポットが当たるようになります。代表は、大滝詠一『A LONG VACATION』(81年)や山下達郎『FOR YOU』(82年)など。やがて、そういった先人たちの音楽性を踏まえて、よりトレンド性を打ち出したアーティストが登場します。それはいわゆる〈シティー・ポップ〉と括られた一群で、杉山清貴&オメガトライブもそのなかのひとつとして、83年にデビューしたのです。

デビュー曲“サマー・サスピション”は、竹内まりや“September”や上田正樹“悲しい色やね”などを手掛けてきたヒットメイカー、林哲司による楽曲。以後、“君のハートはマリンブルー”“ふたりの夏物語”など、AORやフュージョンなど洋楽テイストをバランスよく採り入れたヒット曲が、このコンビで送り出されます。カラーのジャケット、細身のロングタイ、サマーニット、麻混のパンツといった当時流行のファッションに身を包むなど、ルックス面での戦略も功を奏し、トレンドにどっぷりと浸かっていた世代はもとより、お茶の間にまでその人気は浸透していきました。

に抜擢されたのは日系ブラジル人のカルロス・トシキ。パンチ力では杉山に及ばないものの、そのソフトな歌声とシティー・ポップ路線のサウンドとの組み合わせはむしろリスナーに新鮮な印象を与えました。サウンド・プロデューサーも新川博に代わり、“君は1000%”“Super Chance”などヒットを連発。88年にはメンバー・チェンジと共にカルロス・トシキ&オメガトライブと改名し、 アクアマリンのままでいて などのヒットを飛ばします。

好景気がもたらした〈遊びカルチャー〉がその人気の後押しをしたところも少なからずあったオメガトライブ。90年に彼らが解散したその時、バブル経済も終焉を迎えるのでした。

 

オメガトライブ周辺のその時々



カルロス・トシキ&オメガトライブ 『プレミアム・ベスト 1986オメガトライブ/カルロス・トシキ&オメガトライブ』 ワーナー

日系ブラジル人の2代目ヴォーカリスト、カルロス・トシキ。たどたどしい日本語の発音とソフィスティケイトされた歌声が放つ独特のエキゾティック感覚によって、オメガトライブは第2期黄金時代へ。サウンド・プロデューサーが新川博に代わり、“Super Chance”“君は1000%”のヒットほか、“Cosmic Love”“Stay Girl Stay Pure”などコンテンポラリー・ソウルの匂いを強めたブリリアントな名曲を数多く残しました。

 

杉山清貴&オメガトライブ 『THE OMEGA TRIBE』 バップ

〈キールのグラスをほほに当てて〉〈ツイードのジャケット 君の背中にかけて〉――80年代的ロマンティシズム、さらに“君のハートはマリンブルー”なんてイマドキの女子に言ったらドン引きされるセリフにも酔えた80年代は良い時代でした。とはいえ、AORを下敷きにしたアーバンなサウンド観はいまだに有効。

 

菊池桃子 『スペシャル・セレクション l』

オメガトライブと同じプロダクション所属で、林哲司ら杉山オメガと同じ制作陣で送り出された彼女。ファースト・アルバム『OCEAN SIDE』(84年)のコンセプトはズバリ、〈大学生が持って歩いても恥ずかしくないアルバム〉でした。当時なりに背伸びした世界観がケータイ世代にどこまで伝わるかですが、サウンドはエヴァーグリーン。

 

中村雅俊 『ソングス1』 コロムビア

オメガトライブのヒットによって俄然注目を集めた作曲家、林哲司。男性に限って言えば、中川勝彦や稲垣潤一、田原俊彦、そして本来の俳優業並みに貪欲な歌手活動をしていた中村雅俊からもラヴコールが。“パズル・ナイト”(編曲は新川博)、“ナチュラル~愛の素顔”といったシティー・ポップスを提供し、〈歌手・中村〉のカラーを刷新した。