音楽学者/ロックミュージシャン・大里俊晴の〈最初で最後の著作集〉
これは、「音楽学者/ロック・ミュージシャン、大里俊晴」の〈最初で最後の著作集〉である。それは、著者がすでに他界し、新たなテクストが著者によって書かれることがもう叶わないからだ。この本は、そのようなきっかけで、遺稿集として編纂、出版されている。しかし、そうでなくとも、この本はいずれ出版されるべき書物であったことは間違いない。それには本人の意思もあったのかもしれない。本書は少なからず読者に待たれていながら、著者の生前にはついに実現されることはなかった。むしろそれを望む者は多くあったにちがいないだろう(私も含めて)。しかし、残念ながらそれは著者の死によって実現するということになってしまった。
ここに纏められたテクストは、シャンソン、ロック、現代音楽、フリージャズ、批評家たち、マンガ家たち、ついて書かれたもの、大学や自身のスタンスについてインタヴューに答えたもの、初期のテクスト、など多岐にわたっている。それらは書名に表わされているとおり、おもに少数者の音楽を論じたものであり、かつ著者による少数者の視点によって論じられたものでもある。そして、それはおのずと反権力としての異議申し立てや、行動の一貫性への疑問、さらには「反動ジジイとして生きる」といった態度となって表われてくる。なにか権力の匂いのするものへの嫌悪や流行のようなものへの違和感といったものが色濃く表わされるそのテクストは、著者の著述家としての非常に真摯な態度を窺わせるものである。それは、つねにオルタナティヴとしての立場をとり、異なった視点から物事をとらえるというスタンスでもある。とはいえ、けしてシリアスになりすぎず、どこかユーモアを感じさせる文体を持っているのが魅力でもあるだろう。
もうひとつ、著者のテクストの魅力とは、次から次へと連想ゲームのごとく登場する異なった文脈への接続ではないだろうか。時には極端に飛躍し、時には少しばかり逸脱するように、さまざまな出来事や事例が連結していくさまは、とてもエキサイティングなものだ。それは「ジョン・ケージからジョン・ケールまで」などのような、ジャンルを超えた共振や連想による、異なったもの同士が接続され、それが増殖するというように思考を展開する。「どこまでも延びていく接続の線」が「さらに奇妙なものを結びつける」と書かれているように、それがまさに大里さんの行動原理でもあったのだ。それはまったく終わりのない探求の道でもあったはずなのだが…。こうして、まとまったテクストを読んでいると、いろいろとスタイルを変えながらも、その文体からは、どこかおどけたような口調の大里さんの言葉がよみがえってくるような気がする。