ジョン・ケージが間もなく生誕100年だという。しかし「まあ当時としては過激だったんだろうなあ」などと呑気な感慨に耽る気にはなれない。ケージの標語として有名な「偶然性」と「不確定性」。実はこれとて、ある種の即興性と混同するなどという幼稚な誤解もいまだ多く見受ける。何をやっても良いというお気楽さと、起こることをすべて受け入れるという厳しい覚悟との違いは無限に大きい。
この相違は単に、身体と精神の狭さ、広さということではない。譬えていうならこうだ。陶芸で、焼き上がっ た陶器を窯から取り出してみたら、当初意図したイメージと色かたち、表面の肌理、文様の顕れなどが違ったとしよう。焼成の温度、炎のまわり具合、土や釉薬等の熱・化学変化の完全なコントロールが不可能なため、そこに「偶然性」が作用したなどと言ったりもする。焼き上がった結果が元のイメージと大きく異なれ ば、その作品を叩き割ってしまうのが芸術家として潔い態度とされる。このような、偶然性から得た結果を意図や好みの範囲に収めて飼い慣らそうとする態度は、ケージの「偶然性」とは相容れるものではあるまい。
一方、ケージの作曲における手続きを大雑把にいうと、音の有無にはじまって、音の素材や組み合わせを(例えばサイコロや易などを用いて)「偶然性」に委ねて予め決めてしまい、それらの作用結果を「不確定」にしておくということになる。予測不能となったその音響結果がどのようなものであれ、それを恣意的に排除することなく受け入れて、その音(時間といってもよい)と聞き手が一体化することを目指すのである(実は「偶然性」は「不確定性」を獲得するための手法のひとつにすぎない)。予測不能にするということが実験的行為なのであり、その結果(=音)を受け入れ、一体化するという行為が、ケージにとっての、そして同時に聞き手に課される音楽行為なのである。
さて、神奈川県民ホールギャラリーで開催される『日常/ワケあり』は、現在ニューヨーク在住の日本人美術 作家3人による展覧会だ。その一人である田口一枝のLED光を使ったインスタレーションの展示スペースにおいて、ダンスとのコラボレーションのかたちで、ケージの作品3つが演奏される。なかでも、元来1時間に及ぶヴァイオリン独奏曲《フリーマン・エチュード》は、拍節感のない無音の多い、ケージの中期を代表する作品。ひと筋の音が紡ぎだされ、やがて形のない無心の時間の中にただ身を委ねるような不思議な作品だ。今回はこの長大な作品の一部を取り上げるかたちとなるが、視覚表現や身体表現と組み合わされることで、ケージの後期作品の持つような不確定な要素が重層的に加わる。緊張感と解放感とが交錯するこの作品は、まさに今回の展覧会のテーマである「日常/ワケあり」に呼応するものといえるだろう。
『日常/ワケあり』 10/18(火)〜11/19(土)
江口悟/田口一枝/播磨みどり
会場:神奈川県民ホールギャラリー
日常/ワケあり×アート・コンプレックス2011
『ジョン・ケージ生誕100年「せめぎ合う時間と空間」』
ジョン・ケージ:《フリーマン・エチュード》より/《ヴァリエーションズ》より/《危険な夜》
美術:田口一枝
出演:亀井庸州(vn)北村明子(dance)寒川晶子(P)一柳慧(解説)
10/29(土)16:00/19:00
日常/ワケあり」特設HP
http://www.nichijo-wakeari.info/