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『あらかじめ失われた恋人たちよ』/『原子力戦争 Lost Love』

カテゴリ
o-cha-no-ma LONG REVIEW
公開
2011/12/26   19:14
ソース
intoxicate vol.95(2011年12月10日発行)
テキスト
text : 樋口泰人(boid)

『あらかじめ失われた恋人たちよ』

What's going on?〜我々はどこにいるのか?

スピルバーグの監督したフルデジタル3D映画『タンタンの冒険』は、100個あまりのカメラが装備された天井を持つスタジオで、さらに8台のHDカメラを使って撮影された映像がアニメ化され3D化されて作られたのだという。その映像はまさに実写とアニメの中間、現実と夢の見事なグラデーションの中にあった。今ここに生きている私といつか何処かで生きている私とが決して別々のことにはならない、今と未来と過去とが重なり合って進む我々の新しい人生のあり方が、当たり前のようにそこにあった。あまりに普通にそれが見えることに、おそらく誰もが戸惑うことになるはずだ。一体今ここにいる私とは何者なのかと。

一方、今ここにあるしかない自分の身体を、世界の各所で起こっている様々な出来事といかに結びつけるかを模索していた70年代。テレビのドキュメンタリストであった田原総一朗が映画を監督したのもおそらく、いかにして「ここ」と「よそ」の境界を突き破るか、映画の内容そのものよりも境界を越える運動そのものに魅了されてのことではなかったかと思う。もちろんそれは単なる憶測にすぎないのだが、そう思わざるを得ないのは、71年に製作された初の監督作品『あらかじめ失われた恋人たちよ』が何よりもまず示すのが、映画と演劇とテレビ、そしてフィクションとドキュメンタリー、俳優と素人の混在と混乱だからである。しかしその混在と混乱は何か特別のことではなく、もはや映画とはこのように作られるものとなったのだという当たり前の感覚がそこには貼りついていて、つまりこの映画の背景にある状況こそがこの映画を作らせたというどうにもありきたりな言い方になってしまうのだが、とにかく奇跡的な出来事としてではなくある段階を踏んだ出来事のひとつとして、それはここにある。

71年、大島渚はすでに彼の名前を世界に知らしめた数々の作品を撮り終えて、翌年の『夏の妹』を最後にしばしの休息に入る。吉田喜重もほぼ同様。それと入れ替わるように詩人でもあり劇作家、演出家としても名を成していた寺山修司が長編デビューを飾る。若松孝二がパレスチナに出向いての『赤軍派—PFLP 世界戦争宣言』を発表し、日活がロマンポルノの製作を始めたのもこの年である。だからテレビの田原総一朗と演劇の清水邦夫とが共同監督して、まったくの素人だった桃井かおりや当初はスチールカメラマンとして雇われたはずだった加納典明を俳優として起用したのもまた、もはや開拓されていた道を堂々と歩み出しただけのことだったのかもしれない。いずれにしても1本の独立した作品というよりこの作品がそこにあることによって見えてくる背景の広がりが、この作品を今も興味深いものにしているのだろう。つまりこの作品自体が「今ここにある身体」そのものになっているということでもある。いや、そうあろうとする欲望が、この映画を作らせていると言うべきなのかもしれない。

その40年後、そこにある何かを映し出すのではなくかつてそこにあったはずの何かの痕跡をなぞるようにして、現実世界に浮かび上がらせたデジタル化された身体の奇妙な輝きを、それは予感しつつ恐れてもいるかのようだ。『あらかじめ失われた恋人たちよ』での石橋蓮司のバランス悪く痩せた身体は、その恐れの中でますますバランスを欠いていく。それはディズニーからタンタンへと受け継がれる運動の見事なバランスと滑らかさとは対極にあるゆえに、今まさに必要とされる身体なのかもしれない。

78年に作られた田原総一朗原作の『原子力戦争 Lost Love』では、原田芳雄が石橋蓮司的な身体を引き継いでいる。素肌にジャケットを羽織るという「いかにも」なスタイルは今見るとちょっと気恥ずかしくもあるのだが、とにかくそこにはむき出しの身体がはっきりと映されているというわけだ。もちろんそのむき出しの身体が生を謳歌するわけではない。石橋蓮司ほど自虐的ではないが気がつくと決して抜け出せない場所へと、自らを導いて行く。タイトル通り原子力業界の闇がそこに広がる。境界線を壊し現実をむき出しにしてその外側に抜け出ていたはずの主人公は、気づくと再び内側に立っていたのである。その行き詰まり感が真夏の太陽の元で進行するこの物語に、湿った影を落とす。

『あらかじめ〜』ではそれを、聾唖者の桃井かおりと加納典明のふたりが引き受けていたのだが、こちらではそのふたりの肉感的な身体とは対極にあるまさに影のような身体を持つ山口小夜子が引き受ける。西欧的な存在感とは全く違う墨絵の中の人物と言ったらいいだろうか。近代化によって日本の外側に抜け出るのではなく、その内側に自身を滲みこませるようにして内側と外側の区別をなくしてしまうような存在。素肌にジャケットではなく素肌に薄い布を纏い涼しげに歩く。それだけでむき出しの男を動揺させてやまない彼女の存在が、『あらかじめ〜』から7年後の変化を示しているように見える。

それからすでに30数年。我々の現実の境界線はさらに巧妙に張り巡らされ、境界線などなかったかのような錯覚さえ覚えるほどで、気がつくと我々はさらなる細部へと追いやられているように見える。我々は一体どこにいるのか? ここはどこなのか? 何が起こっているのか? 現実とフィクションが交錯するこの2本の映画を見ながら、我々の今と今への関わり方を、改めて見つめ直してみたいと思う。