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映画『ローマ法王の休日』

カテゴリ
o-cha-no-ma CINEMA
公開
2012/07/20   12:20
ソース
intoxicate vol.98(2012年6月20日発行号)
テキスト
text:北小路隆志

新法王は鬱病らしい!?  図らずも神様に一番近い存在となった新法王の逃亡劇

ナンニ・モレッティ監督による新たな傑作は、まず滑稽なまでに厳かな監禁の儀式を描くことから始まる。枢密卿たちがヴァチカンのシスティナ礼拝堂にぞろぞろと入り、新しいローマ法王を選ぶコンクラーヴェ(選挙)が行われる。3分の2の得票で新法王が選出されるまで、彼らは周囲の世界から完全に隔離された状態に置かれるのだ。何らかの外部の強制によることなく、自ら進んで囚われの身となる派手な衣装の老人たち……。その光景は、どこか僕らの時代の〈引きこもり〉の現象への言及であるかのようだ。何回か投票が繰り返されるなか、不意にマスコミや信者のあいだで下馬評にあがることのなかったダークホースの名前が連呼されるようになる。まるで長々と続く投票に疲れ果て、監禁状態からそろそろ解放されたいと願う老人たちが、適当にメルヴィルという名の当たり障りのない人物への投票を示し合わしたかのようである。民主主義的な投票とは、その任務に最も相応しい人物を慎重に選び出すためにあるのではなく、むしろ大きな長所も短所もない凡庸な人間を頂へと祭り上げるためのシステムなのかもしれない。

しかし、真の問題はここから始まる。満場一致の拍手で法王に選ばれたはずの凡庸なる人物が反旗を翻すのだ。私には法王になる資格も能力もない……と。慌ててももう遅い。新法王は鬱病らしい! 邦題からうかがえる法王の逃亡劇が展開されるとしても、事態は本質的に変わらない。メルヴィルはすでに法王に選出されており、自分が図らずも神に最も近い存在となった事態から解放されるわけではないからだ。颯爽とした逃亡劇であることも叶わず、本作は徹底して監禁の物語である。では、監禁は何を明らかにするのか。人間の無能力である。モレッティは『皆殺しの天使』を参照しているかもしれない。あの映画でブニュエルは、自ら進んで監禁状態に置かれたブルジョワらの観察を通し、人間の無能力さをあらわにした。他の監禁された枢密卿らも、事態の解決を図れぬままカード遊びやバレーボールに興じて自らの無能力ぶりを示すが、彼ら(キリスト教)への批判が意図されるわけではない。この映画から僕らが学ぶべきは、人間の無能力(とその認識)の尊さであるからだ。人は自らに宿る能力を誇ることに忙しい。私はこれが出来るし、あれも出来る……等々。能力のみに価値を置くと、新法王の抵抗は哀れで滑稽なものにすぎない。しかし、本当にそうだろうか。他の生物になく人間のみに与えられた特権は、自分に出来ることだけでなく、出来ないことをも認識する(無)能力であるはずだ。本作のラストは、『チャップリンの独裁者』で聞かれた演説の陰画であるだろう。僕ら人間は無能力である……。そうした事実を怯むことなく認識し、ポジティヴに宣する勇敢さゆえに本作はすばらしく、凡庸さを超えた凡庸さによってメルヴィル=ピッコリは僕らをほろ苦い解放へと導いてくれる。

映画『ローマ法王の休日』

監督・脚本・製作:ナンニ・モレッティ 音楽:フランコ・ピエルサンティ
出演:ミシェル・ピッコリ/イエルジー・スチュエル/レナート・スカルパ/ナンニ・モレッティ/マルゲリータ・ブイ
配給:ギャガ GAGA★(2011年 イタリア・フランス)
◎7/21(土)TOHOシネマズシャンテほか全国順次公開
http://romahouou.gaga.ne.jp

©Sacher Film   Fandango   Le Pacte France 3 Cinéma 2011

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