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映画『危険なメソッド』

カテゴリ
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公開
2012/10/04   15:04
ソース
intoxicate vol.99(2012年8月20日発行号)
テキスト
text:前島秀国(ヴィジュアル&サウンド・ライター)

デヴィッド・クローネンバーグ的ユングとフロイト

精神分析の創始者フロイト(ヴィゴ・モーテンセン)と、分析心理学の開祖ユング(マイケル・ファスベンダー)。もともと交友関係にあったふたりは、次第に理論上の食い違いを見せ始め、1913年に決別。その後、前者は「エロスとタナトス」の欲動論を、後者は「アニムスとアニマ」の元型論を生み出した。ところが、両者の決別と理論形成には、あるひとりの女性の存在と知性が大きく関わっていた。ヒステリー患者としてユングの治療を受け、フロイトの指導のもとで精神分析家となったザビーナ・シュピールライン(キーラ・ナイトレイ)である。

そのザビーナを軸に、近代心理学黎明期の史実を映画化した『危険なメソッド』は、必ずしも心理学入門を目的とした真面目一辺倒の映画ではない。スター3人の見事なアンサンブル。ウィーン・ベルヴェデーレ宮殿をはじめとする風光明媚なロケ地を捉えた美しい撮影。『ユング自伝』などに記述されている有名エピソードを巧みに織り込んだ、名脚本家クリストファー・ハンプトンの見事な構成。筆者の知る限り、ザビーナを題材にした映画はこれが3本目だが(筆者は他の2本も見た)、作品の完成度と娯楽性の高さでは、『危険なメソッド』が圧倒的に群を抜いている。

そりゃそうだろう、なんたって監督がデヴィッド・クローネンバーグなのだから。

ここ30年の資料研究が明らかにしたように、ユングとザビーナは一時期恋愛関係にあり、ユングはその関係を〈治療〉に生かした。当然のことながら、クローネンバーグはその関係をリアルに映像化しているのだが、セックスは言うに及ばず、ユングがザビーナをスパンキングする場面に至っては、おそらくユング派信奉者のほとんどが卒倒してしまうに違いない。だが、クローネンバーグは露悪的な描写で満足することを潔しとせず、ふたりの関係の根底にあった〈ある要素〉まで遡って描こうとした。その要素とは、ワーグナーの『ニーベルングの指環』(の根幹をなすジークフリート神話)に対する深い関心である(これも史実に基づいている)。

そこで、クローネンバーグの長年の相方である作曲家ハワード・ショアの登場だ。

先に触れたスパンキングの場面で、ショアは『指環』に出てくる《ヴェルズングの動機》を編曲して静かに流す。《ヴェルズングの動機》は『指環』の中で、双子の兄妹ジークムントとジークリンデのインセスト・タブーを象徴している。つまり、ユングとザビーナは(双子の兄妹さながらに)背徳的なタブーを犯すことで、それを〈治療〉に生かしているわけだ。それこそが『危険なメソッド』というタイトルの意味に他ならない。

ショアが編曲して引用している『指環』の動機は、他にもある。『指環』の中で〈隷属〉を意味する《ニーベルング族の鍛冶の動機》がショアのスコアの至るところで流れてくるが、これはヒステリー症に〈隷属〉するザビーナや、権威的なフロイトに〈隷属〉するユングを象徴している。渡米したフロイトとユングがニューヨークの摩天楼を目にする場面で流れてくる《ワルハラ城の動機》には思わず爆笑してしまったが、これも摩天楼とワルハラ城の外見的な類似を揶揄した、単なる音楽的ギャグと見るべきではない。摩天楼=ワルハラ城に入場するフロイト=神々の長ヴォータンの父権的な態度に対して、ユングが反抗心を抱いている状況を、ショアは《ワルハラ城の動機》に託して表現しているのである。

このように、ザビーナ、ユング、フロイトの3人が織り成す人間ドラマをワーグナーの音楽(の編曲)で丁寧に裏付けていったクローネンバーグの演出とショアのスコアは、まさに驚嘆の一言に尽きる。その極めつけが、ワーグナーが妻コジマへのクリスマスプレゼントとして作曲し、長男ジークフリート・ワーグナーの誕生の喜びを表現した名曲《ジークフリート牧歌》の印象的な使用だろう。

本編の中で描かれているように、ザビーナは神話上のジークフリートと同化することを強く望んだ(現存するザビーナの日記の中で、彼女はユングとの想像上の子供を〈ジークフリート〉と名づけている)。その意味で彼女は、典型的なクローネンバーグ的登場人物――現実と虚構の区別が付かなくなる『ヴィデオドローム』の主人公や、『蝶々夫人』のヒロインに同化して自害する『Mバタフライ』の主人公──と言えるかもしれない。だが本作には、それらクローネンバーグの旧作に見られた〈甘美な死〉の結末は用意されていない。本作のラストシーンで流れる《ジークフリート牧歌》の痛々しい短調への編曲。それは、現実の苦さを受け入れざるを得なかったザビーナの悲劇を象徴すると同時に、クローネンバーグという映画作家の円熟をも象徴しているのだ。

なお、本作のサントラ盤には、ショアが《ジークフリート牧歌》全曲をピアノ用に編曲したものを、ラン・ランが演奏した録音(本編未使用)が特別収録されている。演奏時間は実に32分強! かのグールドの録音が可愛らしく聴こえてくるほど、実に耽美的で異様な演奏だ。『ザ・フライ』や『ザ・ブルード/怒りのメタファー』の中で、グロテスクな赤子を出産する場面があったが、あれに通じるものがある。まさに〈クローネンバーグ的〉と呼ぶべき怪演だろう。

映画『危険なメソッド』

監督:デヴィッド・クローネンバーグ
原作(戯曲)/脚本:クリストファー・ハンプトン(『つぐない』)
音楽:ハワード・ショア
出演:マイケル・ファスベンダー/ヴィゴ・モーテンセン/キーラ・ナイトレイ/ヴァンサン・カッセル
配給:ブロードメディア・スタジオ(2011年 イギリス・ドイツ・カナダ・スイス合作 99分)
◎10/27(土)TOHOシネマズシャンテ、Bunkamuraル・シネマ他全国ロードショー
http://www.dangerousmethod-movie.com