「オーケストラ」を締め付けていた枠組みをとらえなおす試みは、あたらしい聴衆を生み出す!
一般的に「オーケストラ」という言葉から想起されるものは、現在でも近代ヨーロッパにおいて確立された管弦楽団ではないだろうか。音楽が聴かれる「場」の変化に伴う、聴衆の誕生、増大。それによってさらに編成規模の拡大がなされ、ある定型にいたる。「オーケストラ」は、筆者が冒頭に記したブライアン・セルズニックの引用にあるように、「大きなひとつの機械」になぞらえるものであり、そこには「ひとつとしていらない部品はない」とされる。それは西洋近代が生み出したシステムであり、武満徹の言う「誰によってでも、また何処ででも同じように再現されるもの」であった。しかし、現代では、高橋悠治の批判にもあるように、それは旧態依然とした制度としてあり、演奏家たちはその制度自体に支配された不自由な存在でもある。ゆえに、音楽のおかれた状況にあわせて制度をつくりなおし、「あたらしいオーケストラ」を組織することが求められているものでもあるだろう。
著者は、「オーケストラ」を、西洋における成立と、試行錯誤とも言えるヴァリエーション、そのさまざまな歴史をたどりながら、その言葉本来の意味である、複数の音楽家たちによって演奏される「楽団」としてとらえなおす。そこには、部品としての演奏家ではない、集団による音楽の再定義のみならず、地域やジャンル、さらには熟練度といった、これまで「オーケストラ」を締め付けていた枠組みをとらえなおす試みが紹介されていく。「オーケストラ」と名のつく、しかし、いわゆるクラシックにおける近代西洋音楽におけるそれではない「楽団」。スタジオを作曲と等しくしたビートルズ、ひとりで多重録音によってオーケストレーションを行なうマイク・オールドフィールド、コンピュータ制御されたシンセサイザーによるオーケストラであるYMO。音楽が聴衆の変化とともにあったように、音楽を生み出す「場」の変化はあたらしい聴衆を生み出すことになるはずなのだ。