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ジョン・ケージ生誕100周年記念リリース

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o-cha-no-ma LONG REVIEW
公開
2012/12/25   19:05
ソース
intoxicate vol.101(2012年12月10日発行号)
テキスト
text: 片山杜秀

ジョン・ケージ生誕100周年記念リリース
『John Cage 100 - Special Edition』
『How to Get Out of the Cage - A Year with John Cage』

2012年はジョン・ケージの生誕 100年。ヴェルゴからも記念CDが発売された。バラバラに出ていた5枚をまとめて廉価にした箱物。ヴェルゴはドイツのレーベル。この5枚組の主要な演奏家にもドイツ人やチェコ人が目立つ。この事実に端的に表れているように、ケージはヨーロッパでとても愛され敬われてきた。もしかすると地元のアメリカでよりも。
実際ケージの大作には、ヨーロッパから委嘱され、かの地で初演されたものが多い。名作オペラの断片を過剰にコラージュし堆積させる《ユーロペラ》は、フランクフルト歌劇場の委嘱。ジョイスの小説『フィネガンズ・ウェーク』に描写された音をかきあつめコラージュしてカオスのような音響イヴェントに仕立てる《ロアラトリオ》は、ケルンの放送局などの委嘱で、膨大な録音素材の編集場所はパリのIRCAM。

なぜケージはヨーロッパで好まれるのか。特にドイツのような理屈っぽい国で。ケージ自身が理屈っぽいからだろう。しかもその理屈を押しつけがましくなくしなやかに語る。まるで東洋の聖人のように。ヨーロッパ人の憧れる非ヨーロッパ的な理屈の表し方をケージは会得していた。

その語り口を絶妙に記録したドキュメンタリー・フィルムが生誕 100年を記念して作られ、DVDがユーロアーツから出た。ユーロアーツもまたドイツの会社。作品名は「いかにしてケージから抜け出るか──ジョン・ケージとの1年間──」という。作曲家の姓と英語の一般名詞のケージ(籠や檻)を掛けている。監督はフランク・シェーファー。オランダ人である。彼が1987年に生誕75年を迎え記念催事で欧米を駆け回っていたケージを追っかけ、インタヴューもした。その素材で1時間を編んでいる。ケージの理屈が、ケージの控え目な人柄と質素な身なりと柔らかな身振りと優しい声によって、おそらくどんな書き物よりも素直に伝わってくる。うまい。

はて、そこに示されるケージの理屈とは? ニコニコ笑いながらチェスなんかして喋っているが、内容はとてつもない。ケージは、まずアメリカの哲人ソローの簡潔を尊ぶ思想と、《ユーロペラ》や《ロアラトリオ》に示されるジョイス流の過剰を尊ぶ思想とを共に礼賛する。何もしないことと何かをしすぎることの両方が素晴らしいというのだ。

何もしない態度はたとえばケージの最も有名な作品《4分33秒》に現われている。演奏者が決められた時間、沈黙を守るのみ。そんな行き方と《ユーロペラ》のような何でもかんでもぐちゃぐちゃ重ね合わせる行き方とは対極的には違いない。しかしケージにおいてはこの正反対の2つは一点で結びつく。あまりに何もない状態とあまりにありすぎる状態とは、どちらも組織できず管理できず秩序だてられない。過少すぎるのと過剰すぎるのとは片付けようがない点では同じである。片付けるものがなければ片付けられないし、片付けようがないほどものが溢れればこれまた片付けられない。

つまりケージの、音の少なすぎる作品と音のありすぎる作品は、共にひとつの哲学を語っている。管理できないことこそ素晴らしい! そこでは誰も自分の趣味や志向を押しつけられない。我を通して他人を支配しようとする権力意思の発動のしようがなくなる。支配する対象がなければ支配できないし、支配する対象がありすぎても支配できないのだから。するとそこで人はどうするか。「それでもとりあえず自分が生きてゆかなくては!」と思うのだ。質素極まる世界か過剰に物の溢れ過ぎた世界か、とにかく誰もが何物をも支配することを諦めざるをえないような世界で、せめて自分を保って生きようとする。そこに自制が生まれ倫理が生まれる。そういう理屈を教え諭すためにケージの音楽はある。それは究極の個人主義と無政府主義の真髄を悟らせるための仕掛けなのだ。《ユーロペラ》や《ロアラトリオ》の片鱗もこのDVDで視聴できる。

ケージをただの音楽と思うなよ!