©Marco Borggreve
本当に何をしでかすかわからない。誰のことかといえばマルク・ミンコフスキ。いや、正確にはこの指揮者と、彼が1982年に組織した古楽器オーケストラ、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル-グルノーブル(MDLG)の音楽家たちだ。
2009年11月の初来日時に接した愉悦感満点の演奏は今も記憶に新しい。ピリオド楽器で追求可能なアンサンブルの精度を高次元にクリアしながら、それだけではツマらん!といわんばかりなのですよ。たとえばモーツァルトの「ポストホルン・セレナード」のメヌエット。郵便配達夫の服を着た楽員が自転車に乗ってステージの最前方を行き来しながら信号ラッパを吹き鳴らす。あるいはハイドンの「驚愕」交響曲の第2楽章。例の和音炸裂の箇所でとんでもない肩透かしが……(同じことをやらかしたライヴ録音のCDまで出ているので、これ以上のネタバレは避けておこう)。
どちらも聴衆の破顔一笑を誘う演出。ひょっとしてお堅い良識派の渋面まで誘っていたかな。しかしミンコフスキとMDLGの場合、不思議とそれが皮相な受け狙いという印象を与えない。作曲者が悪戯心で仕組んだ意表をつく瞬間の存在を、本当の〈異分子〉の乱入によって大胆不敵に実体化したがゆえ……、なんて理屈に走るのは無粋もいいところか。ハイドンとモーツァルトのスコアが喚起する〈ジョワ・ド・ヴィーヴル〉。それを見事に具現化した演奏行為の一部として、彼らの〈遊び〉は然るべく居場所を見出していたのだ。
そんな連中が再びやって来る。舞台は前回と同じ東京オペラシティコンサートホール。シューベルトの『未完成』交響曲と、やはり未完に終わったモーツァルトのハ短調ミサK.427を組み合わせる刺激的なプログラムがミンコフスキらしい。
シューベルトは2012年3月にウィーンのコンツェルトハウスで交響曲全曲ツィクルスに取り組んでおり、そのライヴ録音がリリースされたばかりだ。第1番から第6番までの初期交響曲など、真価を再認識させられますよ。急速楽章における瞬発力満点で、ときにデモーニッシュな感興を迸らせた合奏もさることながら、緩徐楽章のニュアンス豊かな歌の流れと、それを支える和声的楽句の陰翳! シューベルトが若書きのシンフォニーに惜しげもなく配した優美な旋律にカンタービレの命を吹き込みながら、その陰に存在するメランコリーの源泉まで、彼らは容赦なく炙り出す。
となれば『未完成』が本当に、絶望と憧れの交錯する場と化すのも当然のなりゆきか。意外なほど遅く沈着な音楽運びで、しかし細部のアクセントも鮮烈に効かせた第1楽章が、展開部に入る前後からヤバい精神世界に足を踏み入れていく過程が怖いほどの実体感と共に浮かび上がる。第2楽章は転調楽句の色合と質感の変化が絶妙で、コーダに至るまでのドラマの起伏は驚くほど大きい。こんな演奏に生のステージで触れることができるとしたら凄いですよ。
そしてモーツァルトのハ短調ミサ。スコア上は独唱者4人(ソプラノⅠ&Ⅱ、テノール、バス)と混声合唱を必要とするが、今回は何と10人のヴォーカル・アンサンブルで歌われるという。
この曲に関して、まだミンコフスキとMDLGの録音は存在しないけれど、彼らのCDで参考になるものがひとつ。やはり10人の独唱者のみが起用された、バッハのロ短調ミサの2008年盤だ。いわゆるリフキン方式の延長線上だが、独唱声部と合唱の担当箇所の配分が画一的でなく、歌手各人のソロイスティックな挙動も非常に重視。オーケストラもいつになくリズムの弾性に富み、バッハの書式に内在する舞曲的躍動感を強調。おのずとテクストが肉体的なフォルムまで獲得した結果、まるで典礼文を台本とする芝居(!)の稽古に立ち会うような思いすら抱かされたものだ。
いわば生身の人間のドラマとして再現される宗教作品。そこにオペラの分野での評価も高いミンコフスキの劇場人的資質が感じとれよう。モーツァルトでも本当に何をしでかすか予測はつかないけれど、仮にそのミサが〈生きる喜び〉を満面にたたえて鳴り響くとしたら、それこそが今の僕たちに必要な音楽じゃないかって気もします。
LIVE INFORMATION
マルク・ミンコフスキ
レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル - グルノーブル
2/22(金)19:00開演
曲目:シューベルト:交響曲第7番 ロ短調 D759《未完成》/モーツァルト:ミサ曲 ハ短調 K427(10名のヴォーカルアンサンブルとともに)
出演:マルク・ミンコフスキ(指揮)レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル - グルノーブル
会場:東京オペラシティ コンサートホール
http://www.operacity.jp/