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塀の中のジュリアス・ シーザー

公開
2013/01/18   21:03
ソース
intoxicate vol.101(2012年12月10日発行号)
テキスト
文/北小路隆志

古代ローマの政治抗争に着想を得たシェークスピア作品をイタリアへと奪還する試み。実際僕らは、シーザーやブルータス、ローマ市民が本来の言語(?)を取り戻し、方言混じりのイタリア語を話すことにまずは感動を覚える。ただし、パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニの野心はそれだけにとどまらない。

冥界(死後の世界)へ赴くギリシア神話の登場人物を始祖とするオルフェウス教では、「肉体は牢獄である」と主張された。肉体を意味するギリシア語「ソーマ」は、「墓場(セーマ)」に由来するものともされ、プラトンの著書でのソクラテスの解釈によれば、犯した罪を償うまで僕らの魂は牢獄にも似た肉体という「ソーマ(保管所・拘束所)」に囲われる。大仰な話で煙に巻きたいわけではない。ただ単純に僕らがそれぞれに囚われの身であることを確認したいだけだ。私が私であることから逃れられないとすれば、「私は何者なのか?」という自分探しのゲームは愚かしく、だけど、その「愚かさ」を嘲笑うこともできない。実際、シェークスピアの戯曲の多くはそうした「愚かさ」を巡るもので、『ジュリアス・シーザー』も例外ではない。主人公ブルータスは後年生み出されるハムレットを予告するかのように冒頭から正体不明の憂鬱に囚われている。飛ぶ鳥を落とす勢いのシーザーを暗殺する集団に加わるのも、自らの意志というより周囲の口車に乗せられてのことだ。結果、ブルータス、お前もか……との有名な断末魔の声を僕らは耳にする。暗殺の動機は、シーザーが独裁者になろうとしていることにあり、事を成し遂げた後で、自由だ、解放だ、と集団は口々に叫ぶが、物語半ばに呆気なく訪れる凶行の後、シェークスピアの容赦なき筆致は、そうした「自由」や「解放」がまた別の牢獄への入口であったことを明らかにするだろう。生きる限り、僕らは自分自身(の肉体)という牢獄から自由になれず、暗殺者らは「自由」や「解放」という幻想に囚われていたのだ……と。

本題に戻ろう。ローマ近郊の刑務所での受刑者らの演劇をタヴィアーニ兄弟が鑑賞したことが本作の発端となった。感銘を受けた映画作家は、演出家や受刑者らに『ジュリアス・シーザー』の映画化をもちかける。当初から「映画」であり、本作は戯曲の映画化でも演劇の完成までを追うドキュメンタリーでもない。後者についてはとりわけ注意が必要で、確かに舞台上での上演が最後に置かれるとはいえ、本作にあって舞台は特権的な場所じゃない。映画作家の本作にかける最大の野心は、刑務所それ自体を劇場と化すことにある。中庭や廊下、踊り場や図書館、そして監房……。

それにしても、なぜ映画化なのか。僕らが囚われの身であることをあらわにする装置として、映画が選ばれるのだ。映画はショットの連なりで構築され、ショットは四角いフレームによって枠づけられる。そうした意味で映画とは監禁の芸術であり、だから本作はブルータス役の俳優=受刑者のクロースアップ、つまりはフレームで厳重に囲いこまれる人間の顔から始まらねばならなかった。オーディションの場面では、志願者らを一様にバストショットに収め、フレームによる枠づけに耐えることこそ、映画に出演するための条件と見なすかのようだ。映画は監禁装置であるのみならず、複数のショットを結ぶモンタージュを介して演劇とは異質の時空間を広げ、ある種の解放を被写体にもたらす。たとえば、実際にはブルータスとキャシアス役の俳優=受刑者にそれぞれの監房で台詞を語らせつつ、まるで対面した状態で会話を交わすかのように編集される場面。フレーム=牢獄に閉じ込められた孤独な二人が、しかしショットの切り換わりによって繋がり、対話の共有へと解放されるのだ。卓越した俳優とは、器用に他人になりすます術に長けた存在ではなく、「私」が「私」の囚われである事実を受け入れる存在なのではないか。刑務所を劇場化する企てである本作は、あらゆる俳優のみならず、この世界において何らかの役割を演じるほかない僕ら自身の囚われの境遇をも浮き彫りにする。これこそ人間である……。シェークスピアがブルータスの死体の前で登場人物らに語らせるこの台詞は、囚人たちをキャストに撮られた本作にあってさらに深遠の度を増すだろう。

舞台を終えた俳優が劇場を去るように、映画を撮り終えた受刑者はやがて刑務所を去るのか……。もちろん彼らは再び厳重に施錠された監房に戻る。しかし、「芸術を知った今、監房は牢獄になった」と独房でカメラを見据えて語るキャシアス役の俳優=受刑者のラスト近くのクロ-スアップを待つまでもなく、もはや彼らは本作が撮影される以前の彼らと同じではない。ちょうど、この映画を見終えた僕らが、それ以前と同じではありえないように。宿命的な監禁状態を引き受け、なおも思考や行為を継続させることを通じてのみ、人は最も開かれた存在となりうるのであり、そうした認識への到達こそが、真の解放であり自由ではないか……と映画作家は僕らに語りかけている。

映画『塀の中のジュリアス・シーザー』
監督・脚本:パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ
共同脚本:ファビオ・カヴァッリ
劇中戯曲:ウィリアム・シェイクスピア
音楽:ジュリアーノ・タヴィアーニ/カルメロ・トラヴィア
出演:コジモ・レーガ/サルヴァトーレ・ストリアーノ/ジョヴァンニ・アルクーリ/アントニオ・フラスカ/ファン・ダリオ・ボネッティ/ヴィットリオ・パレッラ/ロザリオ・マイオラナ/ヴィンチェンツォ・ガッロ/フランチェスコ・デ・マージ/ジェンナーロ・ソリト/フランチェスコ・カルゾーネ/ファビオ・リッツート/マウリーリオ・ジャフレーダ/パスクアーレ・クラペッティ/ファビオ・カヴァッリ
配給:スターサンズ(2012年 イタリア 76分)
◎2013年1/26(土)より銀座テアトルシネマほか全国順次ロードショー!
http://heinonakano-c.com/