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JIM JARMUSCH

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公開
2014/03/18   10:00
ソース
intoxicate vol.108(2014年2月20日発行号)
テキスト
text : 冨永昌敬(映画監督)


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もはや傍目には、音楽家とのほうが馬が合う監督なのだろうと見えてくる

監督本人の断固とした意志なのか、はたまた配給会社の戦略なのか、ジム・ジャームッシュ作品には意訳による「邦題」というものがない。たとえば公開中の最新作『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』も、原題の『Only Lovers Left Alive』にそのまんまカタカナを当てただけだし、ひとつ前の『リミッツ・オブ・コントロール』にしても、冠詞が省略されているとはいえ原題『The Limits of Control』に忠実だった。

例外もひとつある。『ナイト・オン・ザ・プラネット』の原題は『Night on Earth』のようだが、なぜかここでは「アース」が「ザ・プラネット」に改められている。とはいえあまり違和感はない。ジャームッシュのフィルモグラフィーのなかでは、この程度の些細な誤差さえ際立って見えてくるほど原題の「音」の保持が徹底されており、毎度カタカナばかりの題名にもかかわらず一度聞けばどれも容易に覚えられるというのは、その音の良さによるものであると思う。つまりその意味で『ナイト・オン・ザ・プラネット』は監督の意志にむしろ即しており、この改題は日本人の耳により馴染みよくするための、日本側の配慮だったのかもしれない。

近年のウディ・アレンの映画など、まるでその逆である。音を捨てて、その物語を一言であらわそうとでもしたような邦題が目につく。たとえば『You Will Meet a Tall Dark Stranger』と『Vicky Cristina Barcelona』である。これらには、それぞれ『恋のロンドン狂騒曲』『それでも恋するバルセロナ』という邦題が名付けられているが、むやみ露骨にヨーロッパ観光を促されているような気がして、なんだか口にするのを避けたい気になるのが正直なところだ。とはいえ原題はほとほと覚えにくい。どうしたものだろう。『タロットカード殺人事件』の原題が『Scoop』だと知ったときも、たいへん複雑な気分になった。簡単すぎてよくなかったのだろうか。「スクープ」という既視感の強い外来語は、確かにそれが映画の名前であると気づかれにくい。邦題を考える人もいろいろ大変なのだろう。ジャームッシュ映画の邦題を考える人だってやはり大変だ。本当に原題そのまんまでいいのか、内容がよく伝わるよう意訳しなくていいのか、という気になるにちがいない。

しかしジャームッシュ映画は、やはりその名前を意味ではなく音として認識されることを望んでいる。今回ボックス化された初期3作品の時点から現在までほぼ一貫しているのだから、それはもう全作品に共通の代表者である監督本人の意志と考えてまちがいないだろう。第一作の『Permanent Vacation』だって、この監督だから『パーマネント・バケーション』として日本に紹介されたのだ。もしほかの監督の映画だったら、「パーマネント」にも「バケーション」にも過剰な意訳が施され、より日本人受けしやすくまた青春映画らしい名前で公開されていたかもしれない(それを悪いとは思わないけど)。ちなみに、たった今調べて感動したのだが、『ダウン・バイ・ロー』のイタリア語タイトルは『Daunbailò』だという。これならイタリア人もダウンバイローと発音するしかない。意味はともかく、なるべく原題に近い音でタイトルを認識されたいというジャームッシュの意志は、日本のみならず世界各国に向けて徹底されているようだ。

では、このような題名に対するジャームッシュの一貫した拘泥の正体とは何なのだろうか。それに答えるものこそ初期の3作品なのだと思う。この監督はトム・ウェイツともジョン・ルーリーとも昵懇の仲で、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』や『ダウン・バイ・ロー』では彼らを主演俳優として起用しつつ音楽も任せている。すなわちサントラの演奏にはアート・リンゼイやマーク・リボーといった彼らに近しい大物ミュージシャンが名を連ねることにもなり、もはや傍目には、ジャームッシュという人は同業者よりも音楽家とのほうが馬が合う監督なのだろうと見えてくるわけだ。そうなると、彼自身もどちらかというとミュージシャンのような容姿をしているものだからか、ものの考え方や行動原理までもが音楽家然としてきて、いきおい映画をつくるさいにも、レコードを一枚をこしらえるような取り組み方になってしまうのもやむを得ない。音楽作品の名前というのは通常、アルバム名にしろ曲名にしろ、異言語圏に売り出す場合であってもその言語に翻訳改題されることがあまりないわけで、そうした慣例をジャームッシュはごく自然に映画に導入しているだけなのではないかと考えられるのだ。60歳を越えた現在に至るまで小説の映画化や旧作のリメイクといった企画に頼らず、全作品の脚本をみずからの手で書くことに執着し続けているのも、きっと彼がソングライターとして生きているからなのだろう。



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