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第3回 ─ カリブの熱風、TK

連載
IN THE SHADOW OF SOUL
公開
2005/03/24   19:00
更新
2005/03/24   19:14
ソース
『bounce』 262号(2005/2/25)
テキスト
文/JAM

マイアミの風土に育まれたディープなサザン・ソウルと陽気なパーティー・グルーヴ

マイアミ直送の音楽のあり方を多彩な側面から伝えてくれたインディーの雄、TK。〈ギネスブック級〉なる表現も決して大袈裟ではないほど多岐に渡る傍系レーベル(その数およそ30!)を傘下に抱えながら、70年代に猛威を振るったディスコ・サウンドのランドマーク的存在でもあったTKは、その一方でサザン・ソウルの伝統にも忠実であり、歴史的に見ても極めて重要なレーベルである。

 ディストリビューターとして業界では有名だったヘンリー・ストーン(21年、ブロンクス生まれの白人)によってTKがフロリダ州マイアミに設立されたのは72年のこと。そもそも彼はディストリビューターである一方、自由に使えるスタジオを保有、そこにアーティストを呼び寄せて録音した音源をメジャーに売り込んでいたりもした人物で、そんななか、配給をアトランティックに託したベティ・ライト“Clean Up Woman”や、ビギニング・オブ・ジ・エンド“Funky Nassau”(両曲共にリリース元は、ヘンリー・ストーンとスティーヴ・アレイモが関与したローカル・レーベル=アルストン)の成功により、彼は独自レーベルの設立を決意している。ヘンリーのオフィス上階にあったスタジオのオーナー、テリー・ケイン(Terry Kane)の頭文字を頂いたTKが独自に製造/配給/販売した最初の作品はティミー・トーマスの“Why Can't We Live Together”とされ、ソウル・チャートで2週連続首位(ポップ・チャート最高位3位)を記録した同曲の大ヒットでTKは一気に勢いづく。

 この後、TKからはおもしろいようにヒットが続き、なかでもその躍進にもっとも貢献したのはヘンリーの事務所で荷造りのバイトをしていたハリー・ウェイン・ケイシーとスタジオ常駐のエンジニアであるリチャード・フィンチという白人青年2人が中心となったKC・アンド・ザ・サンシャイン・バンドだった。75年の“Get Down Tonight”の爆発的ヒット(ソウル/ポップ両チャート1位)に続き、彼らは“That's The Way(I Like It)”“Shake Your Booty”と、次々にNo.1ヒットをモノにする。彼らの開放的なサウンドは青地にヤシの木をあしらったTKのコーポレート・イメージそのままに、やがては〈Sunshine Sound〉と呼ばれるようになった。彼らの活躍はジョージ・マクレーの“Rock Your Baby”や、ジミー・ボ・ホーン“Dance Across The Floor”といった所属シンガーのプロデュースにまでも及び、まぎれもなく彼らの存在はTK最強の駆動軸となった。

 さらに12インチ・シングルとして史上初のゴールド・ディスクとなったピーター・ブラウンの“Do Ya Wanna Get Funky With Me”、これまたダンスフロアを爆心地としたアニタ・ウォードの“Ring My Bell”、ディスコ・ブームのピークを宣言したフォクシーの“Get Off”など、相次ぐディスコ・ヒットによりTKは70年代の後半にはメジャーをも脅かす巨大な図体と化す。

 皮肉にもディスコの流行が冷え込むのに伴って、TKの栄華にも急ブレーキがかかるのだが、ダンス・ミュージックのヒット公式を数々見い出した点も含め、TKが黒人音楽界にもたらしたさまざまなノウハウはいまもなおしっかりと息づいている。もしTKがこの世に存在していなかったら、ブラック・ミュージックはいまほどおもしろくなかったかもしれない。

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